スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

只管打座(日本曹洞宗)

日本の曹洞宗の坐禅の特徴は、「只管打坐」(「唯務打坐」、「祗管参禅」)です。

これは、仏を目指すといった目的を持たず、意図的な作為をせずに、ただ無心に座るのが「只管打座」です。
つまり、目標もメソッドを持たないことを特徴とする瞑想法です。
公案という課題を持って行う臨済宗の公案禅とは、まったく異なります。

「只管打坐」は、道元禅師が教えた方法ですが、実は、長らく、日本の曹洞宗は、臨済宗の公案禅を行ってきました。
それを、昭和になってから、澤木興道禅師が「只管打坐」を復活させました。


道元禅師は、人はもともと仏性を持っていて、煩悩があっても悟りはそれを超えているので、煩悩をなくす必要がないと考えました。
しかし、分別的な意識が生じると、仏性から離れてしまいます。
ですから、本来的に仏であることを明らかにするために、坐禅が必要となります。
これを、「本来の面目が現前」(普勧坐禅儀)とも表現します。

「只管打坐」は、凡夫が仏を目指して行う「習禅」ではなく、仏として座っている「仏行」です。
これは、「本証妙修」とか「修証一等」、つまり、「仏の悟り(証)」と「修行(修)」が同時であるとも表現されます。

ですから、坐禅は、体系化された修行道に当てはめることができず、階梯のワンステップとしての「禅(定)」ではなく、「仏法の全道」(弁道話)であると表現されます。


具体的な方法は次の通りです。

座る体の姿勢は、特別なものではありません。

*具体的な姿勢に関しては、下記のページなどをご参照ください。
坐禅の作法(曹洞宗 曹洞禅ネット)
坐禅の仕方(安泰寺)

心のあり方は、特定の対象に集中せず、あえて言えば、すべてに平等に気を向けて、観察する主客の分離をなくします。
概念的な分別以前に、意識をフォーカスして対象に向けることもせず、主客を分離させません。

何かに気を取られたり、雑念が浮かぶと、それを自覚して、そのまま捨て(消滅させ)ます。
しかし、「雑念を対象化し抑える」という作為性を持ちすぎるといけません。

作為性なしに対象を取らない状態になるのは難しいことですが、そのためのに「只管打座」が重視するのは、単純に、姿勢です。
「正身端坐」と言って、正しい姿勢に徹底的にこだわります。
姿勢と心は一体(身心一如)であり、正しい姿勢なら、必然的に正しい心の状態であると考えるからです。
内山興正禅師は、「正しい坐相をねらい、その姿勢にすべてをまかせきっていく」と言います。

一般に、禅では、「調身(正しい座禅の姿勢をとる)」から「調息(呼吸を数えて整える)」に、そして「調心(心を落ち着かせる)」に進むと言われますが、実際には、「調身」だけに気をつけていれば、「調心」は達成されていくのです。

道元禅師は「調息」について、「永平広録」で、作為的な呼吸法を行わず、自然に任せるようにと教えています。

ただ、瑩山禅師の「坐禅用心記」には、心が沈み込んでいる時には意識を眉間や髪の生え際に、落ち着きがない時には鼻先や臍下丹田に、普通の状態の時は、左の手の平に置くように教えています。


*ヴィパッサー瞑想やゾクチェンの瞑想との違い、ヴィパッサナー瞑想への批判などについては下記姉妹サイトのページをご参照ください。

只管打座 と他のメソッドとの違い

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

morfo

Author:morfo
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。