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ヴィパッサナー瞑想

一般に、「ヴィパッサナー瞑想」と言えば、東南アジアの上座部仏教の瞑想法を指します。
この方法を簡単に言えば、常に自分が行っていること、感じていることをあるがままに正しく自覚し、観察することで、執着心が起こらないようにする瞑想法です。

仏教では瞑想法を大きく二つに分けます。

・止(サマタ、シャマタ):集中する瞑想
・観(ヴィパッサナー、ヴィパッシュヤナー):観察する瞑想

この分け方は、上座部仏教だけでなく、大乗仏教でも使います。
しかし、「ヴィパッサナー」とパーリ語で表現する場合は、上座部で行う方法を指します。
欧米では、「インサイト・メディテーション」、「マインドフルネス」と訳されています。

上座部で行われる正規のヴィパッサナー瞑想は、複雑なアビダルマの哲学(「清浄道論」が基本テキスト)に沿って行うので、とても複雑です。
ですが、20世紀にミャンマーのマハーシ・サヤドーら一般人でも行いやすいシンプルなヴィパッサナー瞑想を広めました。
そのため、最近では、マハーシ流(マハーシ式、マハーシ・システム)や、それに近いヴィパッサナー瞑想が、世界的に広がりつつあります。

ですから、ここではマハーシ流の瞑想法を中心に、簡単に紹介します。
仏教におけるヴィパッサナー瞑想の全体像については、姉妹サイトの「仏教の修行体系」をご参照ください。


一般に本格的にマハーシ流の瞑想に取り組む場合には、1、2ケ月、集中的に行います。
主に、座っての瞑想と、歩行による瞑想を順に行います。

座っての瞑想では、呼吸による腹部の動きに集中します。
この腹部の動きが、「基本対象(メディテーション・アンカー)」です。
気が散っても、ここに戻して集中する対象です。

そして、集中しているものを言葉に表現します。
「ふくらんだ、ふくらんだ」、「へこんだ、へこんだ」…という具合にです。
これを「ラベリング」と呼びます。

「ラベリング」はマハーシ流の特徴ですが、現在形で行うか、過去形で行うか、など、細かい違いは、指導者によって異なります。

集中するのはあくまでも腹部の動きなどの「現実」であって、言葉に集中してはいけません。
意識のかけ方は、ラベリング5-10%、現実の対象90-95%程度なのです。

ラベリングは、気づきを継続させるため、深く正しくするために行います。

もし、他のものに意識が移った場合は、それを自覚、ラベリングして、また、腹部の動きに集中を戻します。
他のものに意識が移ることを避ける必要はありません。
意識に上ってきたものを自覚し、ラベリングすればよいのです。
しかし、無自覚に雑念に留まり続けることはいけません。

ラベリングは細かい表現にしません。
例えば、晩御飯のことを考えてしまった場合、ラベリングは「晩御飯のことを考えている」ではなく、「考えている」、あるいは「雑念」です。

このようにして、ひたすら自覚的な観察を続けます。


歩行の瞑想では、ゆっくり歩きながら、最初は「右足」、「左足」とラベリングして自覚します。
あるいは、「持ち上げる」、「踏み出す」、「踏みしめる」と、自覚とラベリングを細かくしていきます。

足全体の感覚に集中することもできますが、最初は、足の裏の感覚だけに集中する方が自覚しやすいでしょう。

もし、他のものに意識が移った場合は、それを自覚・観察、ラベリングして、また、歩行に集中を戻します。


最終的には、座る時、歩く時だけではなく、一日中、自覚を続けるようにします。


初期仏教、上座部仏教の考え方では、人間を「体」→「感覚」→「イメージ」→「感情」→「思考」といった一連の反応として捉えます。
つまり、実際に存在するのはこういった一連の反応のつながりであって、「私」というものはないと考えます。

また、あるがままの対象や感覚は本当に存在していても、それをイメージや言葉で置き換えて捉えてしまった場合、その対象は人間が作り出したものにすぎないと考えます。
あるいは、何かに対して好き嫌いだとか、何からかの個人的な感情的反応をするのも間違いです。

ですから、例えば、歩行している時に足の裏に感覚を感じても、それは「私が歩いている」とか「私が感じている」とか、「私の足」とか「足の感覚」ではなく、ただ、感覚だけを感じるようにします。

あるいは、何か美味しい匂いがしてきても、その匂いそのものを体験し、自覚するだけにして、それが何の匂いかと想像したり、食べたいなとか、今晩何を食べようとか、そんな感情的な反応をしたり、雑念を起こすのは、好ましくありません。
実践的には、無理になくそうとせずとも、感情や雑念に気づいて自覚すると、それは自然に止まってしまいます。

以上のことを心がけてヴィパッサナー瞑想を行っていると、習慣化された自分の反応を自覚し、それから解放されるようになります。
また、自分を無数の、細かい、変化し続ける、感覚などの集合体であると感じるようになります。
そして、あるがままを認識することで、存在しないものに対する執着がなくなっていきます。


* ちなみに、上記したように、マハーシ流では、呼吸そのものを対象にせずに、腹部の動きに集中します。
これは、上座部が重視する「清浄道論」が、呼吸そのものを対象にする瞑想を「止」と分類しているので、それに反するという批判を受けないためです。
ですが、「出入息念(安般念)」の瞑想では、「清浄道論」以前からの伝統的では、鼻や上唇などの呼吸が触れるところの皮膚感覚を対象にし、これを「止」と規定しません。
現代の上座部でも、例えば、スリランカのバンテ・H・グナラタナ師も、ミャンマーのウ・ジョーティカもそう指導します。

* また、タイのルアンポー・ティアン師が指導する「手動瞑想法」では、16のポーズをルーティンとして、手を動かしながら、手の動きを基本対象にし、言葉によるラベリングはしません。
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