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観察する瞑想

「観察する瞑想」は、仏教が仏教に独特の瞑想法であると主張している「観」(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス・メディテーション)が代表です。
ただ、「集中する瞑想」にも、対象の本質を認識するという側面があるので、2つを明確に区別することは難しいでしょう。
(仏教では、「集中する瞑想」の対象は観念的なもので、現実を対象にする場合は「観察する瞑想」だと考えます。)


「観察する瞑想」の準備段階は、仏教では「正念正知」と呼ばれます。
これは、日常的な意味で、自分の行動や感情、考えに、常に気づいているように気をつけることです。
「今、私は怒りを感じている…(怒るのはやめよう)」というように。
常に気づいている状態を保つことは大変難しいですが、訓練によって自覚を保つ時間を延ばすことができます。

最初は、瞑想用の時間を取って、座禅したり、ゆっくり歩いたりして、自覚する訓練をします。
そして、徐々に日常生活に自覚を広げます。
通勤中だとか、家事だとか、単純労働をしている時から自覚をする訓練をするのがやりやすいでしょう。


ユダヤ教のカバラやヨーロッパの魔術的伝統で、毎日寝る前に行う「逆向き瞑想」は、1日の体験を時間を遡って思い出す瞑想です。
これを行うと、自覚できていない時間帯、行動をチェックすることができます。

次に、本格的な「観」(ヴィパッサナー瞑想)に移ります。
「正念正知」との違いは、「私が怒りを感じている…(怒るのはやめよう」といった日常的な認識や判断を捨てて、あるがままに見ることです。

つまり、「私」とか「怒り」といった常識的でパターン化された言葉による認識をせずに、現れた感情・感覚などをそのまま、既成観念なしに自覚し、つかず離れずの中立的な立場から観察します。
すると、自然に日常的に習慣化された感情的反応や行動はなくなります。

一般的には、最初は、呼吸など、観察する基本対象を決めて行い、気が散ると、それをしっかり観察して、また、基本対象に戻します。
基本対象を、呼吸→全身の感覚→外界の感覚→感情→思考と変えていきます。
そして、最終的には、基本対象を決めずに行います。

現代の上座部仏教の、一般向けの瞑想法、マハーシ流のヴィパッサナー瞑想などでは、教義を意識せずに、ただ直観的・直感的に観察するのですが、伝統的な方法では、各宗教・宗派の教義・哲学に従って、理論的に分析して洞察します。

部派仏教(上座部仏教)の場合は、アビダルマ哲学に沿って、日常的な概念ではなく、それを構成している実在する存在(究極法)を一つ一つ見極めていきます(「聚思惟」を参照)。
これによって、無常・無我・苦を認識し、すべてに対する執着と無知をなくしていきます。

大乗仏教の場合は、中観派や唯識派の哲学にそって、「空」「唯識」を認識して、同様に執着と無知をなくすと同時に、説法できるような智慧を得ていきます。

バラモン・ヒンドゥー系のジュニャーナ・ヨガの場合、サーンキヤ哲学ヴェーダーンタ哲学に沿って対象を、心身や外界を粗大なものから順に認識していきます。
そして、それらが自分の本質(アートマンとかプルシャとか)ではないとして捨て去り、最後に自分の本質を見出します。

また、ギリシャ哲学の「テオリア」、キリスト教神秘主義の「コンテンプレーション」は、「霊的・神的な本質を直観する」という意味で「観照」などと訳されます。
これらは実在を対象にする瞑想なので、「観察する瞑想」と言えるでしょう。
(*前者は「弁証法の道」、後者は「十字架のヨハネ(カトリック)」を参照)
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