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集中する瞑想


「集中する瞑想」には、宗教宗派によって様々な目的があり、様々な方法があり、様々な対象があり、様々な深さがあります。
ここでは、その瞑想の深まりを中心に概説しましょう。
「集中する瞑想」を最も論理的に体系化している、仏教の瞑想法を基本に説明します。
仏教では「集中する瞑想」を「止(サマタ)」と言います。

「集中する瞑想」は、何かを対象にしてそれに集中します。
例えば「リンゴ」を対象にする例で説明しましょう。

最初は、リンゴに集中してリンゴと無関係な雑念は排除します。
リンゴについていろいろと考えを巡らしたりします。
最初は、リンゴに対する個人的な好き嫌いや感情的反応などもあります。
次には、個人的な部分をなくして、客観的に考えます。

視覚的イメージに集中する場合は、最初はリンゴの目に見える像に集中します。
次に、外的な視覚像をなくし、心の内的なイメージを保持します。

上記のどちらから進んでも、最終的にはリンゴの客観的な本質、あるいはリンゴという観念そのものそのものだけを対象として集中します。

ちなみに、「ヨガ・スートラ」では、何かに集中する段階が「凝念(ダラーナ)」、一面的にそれを持続できる段階を「静慮(ディヤーナ・禅・メディテーション)」、対象に一体化した状態を「等持(サマディー・三昧・コンテンプレイション)」と言います。

この時点では、まだ思考など、様々な心の働きがあります。
一つずつ、心の働きをなくしていきます。

まず、言葉を使って考えているような、意識的な「粗い思考」をなくします。
次に、言葉を意識しないで行っている無意識的な「細かい思考」をなくします。
仏教ではこの言葉・思考がなくなった状態からを「三昧」と言います。

さらに、瞑想が進んだことで生じている、心が開放された「喜び」の感覚をなくします。
次に、通常の心を越えたところで感じている「楽」の感覚をなくします。
最後に、リンゴの本質との完全な「一体感」だけが残ります。
と同時に、対象にまったく心を動かされない中立的な状態です。
完全な「三昧」(第四禅)の状態です。

*このプロセスについては「四禅(色界定)」をご参照ください。

さらに深い瞑想の段階があります。
それは、集中する対象をなくす、あるいは究極的な対象にしてくことです。
前者は「無」の極限に向かい、後者は「有」の極限に向かいます。
ただ、これはもう「集中する瞑想」というより「観察する瞑想」になっていきます。

仏教やインド哲学、あるいはヨーロッパ・オリエントの「否定の道」では対象をなくしていきます。
つまり、リンゴの本質と一体化した状態で、リンゴの本質という対象をなくします。
完全に対象が存在しない無念無想の状態で、心の波動だけの状態です。
さらには、主体である心も存在しない状態にします。

仏教ではこういった瞑想状態は「空」とか「無相定」、「滅尽定」、「非想非非想処」などと呼ばれます。(*「四無色」を参照)

密教やインド哲学などでは、このような一般的な対象や主体が存在しない状態に、意識や存在の母体、あるいは究極的存在を見出します。
有神論的な宗教の神秘主義の場合は「無としての神」、神秘主義哲学では「一なるもの」と表現したりします。
ただ、これらの場合は、対象が実在なので、「観察する瞑想」と言うべきでしょう。

また、集中する対象として、言葉を繰り返し唱えて、それに集中する方法が世界的にあります。
(*ヒンドゥー教の「マントラ・ヨガ」、ギリシャ正教の「ヘシュカズム」、イスラム神秘主義の「ズィクル」参照)
いずれも、これによって深層の本当の自己や、究極存在を見出そうとするための方法です。

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