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真我探究とニサルガ・ヨガ

現代のインドの聖者であるラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジが勧める瞑想法は、伝統的な「古典ヨガ(ラージャ・ヨガ)」や、ヴェーダーンタ哲学に基づく「ジュニャーナ・ヨガ」の方法とは異なります。

マハリシは、「瞑想(ディヤーナ)」と対比して「探究(ヴィチャーラ)」という言葉を使い、最終目標を「サハジャ・サマディ(自然の三昧)」と呼びます。
ニサルガダッタ・マハラジは、「ニサルガ・ヨガ(自然のヨガ、本性のヨガ)」と呼びます。

二人の方法の特徴は、瞑想において、何らかの対象を保つような精神集中の努力をしたり、対象を識別するような知的活動を行わず、ただ、純粋な主体である「真我」の「気づき」を保つ、というものです。
仏教で言えば、伝統的な「止観」ではなく「原初の気づき」の保持を目指す「ゾクチェン」の方法に近いようです。

マハリシの「真我探求」の方法は、「私は誰か?」、あるいは「私という想念はどこから起こるのか?」という問いを行うというものです。
これによって、意識が向かう方向を、対象である何らかの想念から、純粋な主体へと変えようとするのです。
「私は誰か?」という問いは、単に意識を主体へと向きを変える道具にすぎません。

伝統的なラージャ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガの瞑想法では、何らかの対象に集中することから始め、知的な分析の活動を行い、最終的に自分自身をブラフマンに同一化しようとします。
しかし、マハリシは、これらの方法は、主客の分離した対象を必要とするので、「私」という想念を強めてしまうと言います

特定の想念に集中する瞑想の努力をやめた時、「真我」の気づきが現れます。

しかし、様々な対象・想念に気が散る場合はどうするのでしょうか。
マハラジは、まず、何が私ではないかを知るように、と言います。
現れた様々な想念を意識するのです。
思考は起こるにまかせ、それを見て、思考を見ている自分を見るようにします。
つまり、「気づいていることに気づく」ようにします。
すると、思考は止まり、思考から自由になった状態が突然起こります。

そして、「私は在る(私はそれ)」という主観的で純粋な存在の感覚が現れます。
それに集中することで、意識は対象(客体)である想念から引き離されます。

これによって、主体を何らかの想念に限定して同一化してしまうことを阻止することができます。
対象の想念へ同一化する傾向が止んだ時、「私」という想念は、「真我」の中へ溶け込んでいきます。
この存在状態を繰り返し体験することで、「私」という想念を生むヴァーサナー(潜在的傾向)はなくなっていきます。

その過程で、マハリシは、3つの段階のサマディを区別します。

最初の「サヴィカルパ・サマディ(有相三昧)」は、努力によって「真我」の自覚を保てる段階です。

次の「ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディ(一時的な無相三昧)は、一時的に無努力の覚醒が起こった段階で、身体の意識がなくなった状態です。

最後の「サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ(自然な無相三昧)」は、自我意識が完全に消滅し、努力なく本来の覚醒した状態に留まっていられるようになった段階で、すべてが「真我」の現れであることを認識している状態です。

マハラジは、「あるがまま(ニサルガ)」を重視します。
それは、思考を完全に止めるということではなく、また、今の自分を肯定するのでもなく、ただ自然に起こること、生まれるものを受け入れるということです。


*マハラジは、賢者ダッタートレーヤに始まるとされる「ナート派(ナヴァート・サンプラダーヤ、9人の師の伝統)」の中の、バウサヒブ・マハラジによる「インチェゲリ・サンプラダーヤ派」に属します。
しかし、彼自身、派の教義などについて語りませんし、詳しいことは分かりません。
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ジュニャーナ・ヨガ(ヴェーダーンタの瞑想)

「ジュニャーナ・ヨガ」は真実の知識を得るヨガで、哲学的な考察を瞑想に組み込んだものです。

『パガヴァッド・ギータ』では、出家者向けの瞑想的な「ジュニャーナ・ヨガ」と、在家者向けの行動的な「カルマ・ヨガ」を対比的に語ります。
『パガヴァッド・ギータ』では、「ジュニャーナ・ヨガ」は基本的にサーンキヤ哲学を理解する瞑想です。

サーンキヤ哲学に基づいた「ジュニャーナ・ヨガ」は、「古典ヨガとサーンキヤ哲学の六行観」で書いたように、8支則を基礎として行う「六行観」です。

インドでは、その後、ヴェーダーンタ哲学が優勢になり、あるいは両者がミックスされるようになりました。
*ヴェーダーンタ哲学に関しては、姉妹サイトの「ヴェーダーンタ哲学」を参照してください。

ヴェーダーンタ哲学に基づく「ジュニャーナ・ヨガ」も、基本的な方法は変わりません。
8支則を基礎として、本当の自分(真我)以外のものを識別して否定して、真我を見つけるのが目的です。

サーンキヤ哲学はで、「真我」に当たるのは純粋な「観察者」である「プルシャ」です。
2元論的な哲学なので、「プルシャ」は万物を生み出す母体ではありません。

一方、ヴェーダーンタ哲学は1元論的な哲学で、「真我」に当たるのは「アートマン」で、これは万物の根源としての「ブラフマン」と一体です。
ヴェーダーンタ哲学では「アートマン=ブラフマン」は、「存在(サット)」、「智(チット)」、「歓喜(アーナンダ)」と表現されます。
あるいは「光」として体験される場合もあります。
哲学的には、「偏在するもの」とか、「未展開者」、「第一原因」などとも表現されます。

サーンキヤ哲学では精神的な働きを「ブッディ」、「アハンカーラ」、「マナス」と細かく区別しますが、ヴェーダーンタ哲学では「アンターカラーナ」のみでシンプルです。

また、3つの体や、「真我」を包む5つの鞘を考えます。
これは人間の心身の階層です。

5つの鞘の場合は、「真我」から遠い外側のものから、
・肉体である「アンナマヤ・コーシャ(食物鞘)」
・プラーナ(気)の体である「プラーマナヤ・コーシャ(呼吸鞘)」
・一般的な心の働きである「マノマヤ・コーシャ(心の鞘)」
・直観的な智慧である「ヴィジュニヤーナマヤ・コーシャ(知性鞘)」
・最後に「アーナンマダヤ・コーシャ(歓喜鞘)」
です。
瞑想においても、これらを順に識別していくこともあります。

また、サーンキヤ哲学では「(微細な)5大元素」が感覚器官から生まれるかなり末端的なものであるのに対して、ヴェーダーンタ哲学では「微細な5大元素」が、ブラフマンから近い次元で生まれるかなり根源的なものであるという違いがあります。

そのため、瞑想においても、これらを順に識別していくことが行われます。
「地」→「水」→「火」→「風」→「虚空」→…「ブラフマン」と、より根源的な存在へと進みます。
具体的には、まず、「地」のエレメントに集中し、それが「水」のエレメントから生まれたことを理解し…といった具合です。

バクティ・ヨガ

「バクティ・ヨガ」は、神への“絶対的”な「信愛」、「帰依」、「献身」を通して、神と一体化する方法です。
日常の心得でもあり、儀式的行為(プージャ:供養)でもあり、瞑想法(サーダナ:成就法)でもあります。

「バクティ・ヨガ」では、“常に”、“神だけ”を思い、愛することによって、神以外のものへの執着、感覚的なものへの執着を放棄します。

信愛の対象となる神は様々です。
究極の神は、いかなる人格も形象も超えていますが、「バクティ・ヨガ」では、何からの人格や形象、属性を持った神を対象とするのが一般的です。
一般には、イーシュヴァラ(自在神、主宰神:世界を創造し・主宰する神)を対象とします。

『パガヴァッド・ギータ』ではイーシュヴァラとその化身であるクリシュナ神への「バクティ」が語られ、後の「バクティ・ヨガ」につながっていきます。

礼拝や集中、観想の具体的な対象としては、最初は、特定の自然(太陽、川など)、シンボル(シヴァリンガなど)、神像や神の絵などです。
グルを対象とすることもあります。
やがて、宇宙全体が神の現れなので、最終的には、あらゆる自然に神を見ることができます。
また、形象を持たない神を対象とすることも可能です。

具体的な方法としては、神に供え物をしたり、礼拝したり、神の名前やマントラと唱えたり、観想(ありありとイメージ)したりします。
熱心にそうしているうちに、見神体験、つまり、意図せずに神が姿を持って現前に現れるのを体験します。
そして、神との一体感を感じます。

ヴィシュヌ派では、神との関係の深まりを5段階で考えます。
最初は、人間的関係を築く以前のあり方です。
2番目が「主従関係」、つまり、神を主人のように見る関係です。
3番目が「友人関係」、つまり、神を友のように見る関係です。
4番目が「親子関係」、つまり、神を親のように見る関係です。
最後が、「恋人関係」、つまり、神を恋人のように見る関係です。
さらにそれが深まると、神と一体化します。
最終的に無形の人格神となります。

19C~20Cの聖者であるラーマクリシュナは、女神カーリーへのバクティ・ヨガで有名ですが、彼は、人間は神の化身であるとして、人間に仕えることを説きました。

カルマ・ヨガ

『パガヴァッド・ギータ』では、中心的なテーマとして、在家者向けのヨガである「カルマ・ヨガ」が説かれます。

「カルマ・ヨガ」の方法は、瞑想法というより、日ごろの「心得」に近いものです。
しかし、本格的に行えば、これは「心得」といったものではなく、「常時行う瞑想」であると言えます。

「カルマ・ヨガ」の方法は、シンプルなもので、一言で言えば、結果を顧みずに、自分の利益を考えずに、無私の意識で、自分の仕事・務めを果たす、というものです。

完全に無私な意識で日常の仕事・行動を行うといっても、言うは簡単ですが、行うは難しいことです。
すべての物事に対して、好き嫌いの反応をなくし、平等に見る必要があります。

「カルマ」というのは、「行為」のことです。
インドのカルマの思想では、個人が自我の意志によって選択的に行った特定の「行為」は、特定の「結果」を引き起こすと考えます。
この意味でカルマを「業」とも訳します。

しかし、無私の意識で行為を行い、自分の責務を果たせば、自分の行為を「ダルマ(調和・秩序・摂理)」に一致させることができます。
「ダルマ」は神「イーシュヴァラ(世界を主宰する神)」の現れです。
そうすれば、一見、良くないと思われる行為でも、悪い結果を引き起こすことなく、最終的には解脱することもできるのです。

ですから、例えば、クシャトリア階級の人間が戦闘で人を殺しても、無私な意識で務めを果たしているのであれば、解脱できるとされます。
同様に、シュードラ階級の人間は、無私な意識で奴隷として務めれば、解脱につながるとされます。
(個人的には納得していませんが…)

『パガヴァッド・ギータ』では、「カルマ・ヨガ」と対比して、出家者向けの瞑想的な「ジュニャーナ・ヨガ(知識の道)」が説かれます。
「カルマ・ヨガ」は、正しい知識を得るための準備であるとされるので、「ジュニャーナ・ヨガ」と通じています。

つまり、「カルマ・ヨガ」を行うことを通して、自分の本質である「真我(アートマン=ブラフマン、プルシャ)」を知ることにつながります。
人は、自分が「行為の主体(行い手)」であると錯覚していますが、本当の自分は「観察者」なのです。

「真我」を知ることは、自分が「イーシュヴァラ」と一体であることを理解することでもあります。
「カルマ・ヨガ」は、常に「イーシュヴァラ」の現れである「ダルマ」に関心を持っていることでもあります。

ですから、「カルマ・ヨガ」を行う者は、「イーシュヴァラ」への「信愛(バクティ)」を持つ者であるとも語られます。
つまり、「カルマ・ヨガ」は「バクティ・ヨガ」にも通じています。

ちなみに、近代の聖者であるヴィヴェーカーナンダは、慈愛による利他的な行為を「カルマ・ヨガ」として重視しました。

古典ヨガとサーンキヤ哲学の六行観

「古典ヨガ」というのは、インドで2-4世紀頃に編纂された「ヨガ・スートラ」の修行体系に代表される、伝統的なヨガです。

「古典ヨガ」の目的は、心を止滅させて、最終的に解脱することです。
サーンキヤ哲学を基にしているので、解脱は、「プルシャ」と呼ばれる純粋な意識こそが自分だと認識することで達成されます。
それには、純粋な意識以外の心の要素を、自分自身ではないと見極めて、手放していくことが必要です。

「ヨガ・スートラ」はそのためのヨガの方法を、8段階からなる階梯に体系化しています。
そのため「八支ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」とも呼ばれます。

心を止滅させるために、心を分析していくので、「ジュニャーナ・ヨガ」とも呼ばれます。
心を止滅させていく段階は、「ラージャ・ヨガ」とも呼ばれます。

「古典ヨガ」は、座って心のコントロールを行う瞑想法です。
「バガヴァット・ギータ」で語られるような、信仰的な方法(バクティ・ヨガ)でも、日常的な方法(カルマ・ヨガ)でもありません。
また、タントリズムの影響で生まれた「ハタ・ヨガ」のような、身体的、力動的な呼吸法や、プラーナの本格的な操作は見られません。

「ヨガ・スートラ」の8段階の階梯は次のようになっています。

①禁戒(ヤマ)
不殺生、不淫などの対他的な「すべきでないこと」です。

②勧戒(ニヤマ)
苦行や祈祷、足るを知るなどの対自的な「すべきこと」です。

③座法(アーサナ)
単に、安定した、快適な座り方でなければいけないとだけ書かれています。

④呼吸法・調気法(プラーナーヤーマ)
呼吸法で、ゆるやかに呼吸し、呼吸を止め(クンバカ)、最終的には自然に呼吸が止まった状態(第四の調気)になることです。
多分、プラーナの操作(調気法)という側面もあるのでしょう。

⑤制感(プラティヤーハーラ)
感覚を外部の対象から分離して、意識を内部に向け、気が散らないようにすることです。

そして、最後の3つの段階は、総合的な精神コントロールとして結びついていて、「綜制(サンマヤ)」と呼ばれます。

⑥凝念(ダラーナ)
意識を外界や身体の一点、あるいは特定のイメージや観念に集中して、他の心の動きを消します。
一つの対象に対して、多面から集中することはあります。

⑦静慮(ディヤーナ、禅)
その一つの対象に対して、一面的に、かつ持続的に集中します。

⑧等持(サマディー、三昧)
対象と完全に一体化します。
「サマディー」とほぼ同義語として「定(サマーパッティー)」という言葉も使われます。

サンマヤやサマディーでは、その対象を粗大なものから微細なものに変えていきます。
最終的には対象をなくし、そして心を停止させます。
そのためには、心をコントロールする「修習」と、対象に対する「離欲」が必要です。

粗大なものから順次対象を見極めるのですが、それをサーンキヤ哲学に沿って行います。
その方法を「六行観」と呼びます。

サマディーで一体化する対象がある段階は、「有想三昧」とか「有種子三昧」と呼ばれます。

まず、最初は、普通の物質的なもののイメージと一体化します。
これを「有尋三昧」と言います。
サーンキヤ哲学で言う、5大元素と11根(感覚器官、行動器官、マナス)を見極めます。

次に、物質的なイメージをなくし、非物質的なイメージと一体化します。
これを「有伺三昧」と言います。
サーンキヤ哲学で言う、微細な5大元素を見極めます。

次に、非物質的なイメージをなくしていくと、対象が消滅したようになって、穏やかな心地良さだけがある状態になります。
これを、「有楽三昧」と言います。

次に、さらにそれもなくなり、心地良さも消滅して自分の存在感覚だけになります。
これを、「有我想三昧」と言います。
サーンンキヤ哲学で言う、アハンカーラを見極めるのでしょうか。

また、物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、客体そのものと一体化することを、「無尋定」、非物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、客体そのものと一体化することを、「無伺定」、と呼びます。
この時、内面が清澄になり、直観的な智慧(プラジュニャー)が現れ、どのような雑念も現れなくなります。
サーンンキヤ哲学で言う、ブッディを見極めるのでしょうか。

一体化する対象がなくした段階は、「無想三昧」と言います。
ただ、行(潜在印象)だけは残っています。

また、対象がなくなるだけでなく、直観的な智慧(プラジュニャー)もなくなり、心が止滅したようになります。
そのためには、すべての対象に対する愛着をなくして離欲する必要があります。
サーンキヤ哲学で言う、プラクリティを見極めるのでしょうか。

そして、行(潜在印象)、もなくなった段階は、「無種子三昧」と言います。
最終的には、純粋な意識(純粋な観察者)であるプルシャの状態になって解脱します。
 
プロフィール

morfo

Author:morfo
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