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様々な「完了」の瞑想


心理療法、シャーマニズム、仏教系の瞑想法など、様々な領域で違いがあれども、「完了」させるという言葉で表現できるような共通性がある瞑想などの精神技術、方法論があります。

この「完了」というテーマは、先の記事で取り上げた「気づき」と同様に重要なテーマです。

心理療法では、意識に浮上しようとしている無意識的な心的対象を意識化して、進展させることで完了させる、一種の「夢見の技術」がいくつもあります。

また、ネオ・シャーマニズムには、過去の体験を再体験しながら、それに対して決着をつけて完了させる、瞑想的な方法がいくつかあります。

そして、仏教の奥義的思想であるゾクチェンには、現れた心を消滅するまで、自然になりゆかせて完了させる瞑想法があります。

「完了」させるというのは、総じて言えば、自我の抵抗などによって滞っている心の進展を、前に進めて区切りをつけさせることでしょう。


<心理療法>

心理療法の「夢見の技術」の前に、まず、対比のために、フロイトの精神分析学の考え方を見てみましょう。

意識の検閲機能によって抑圧されたものは、無意識を形成しますが、それは比喩によって姿を変え、意識の検閲を回避し、何度でも回帰して意識に昇ってきます。
身体症状も一種の比喩です。
比喩を解釈してその正体を理解することが、治療であり、無意識の回帰を「完了」させます。


フリッツ・パールズのゲシュタルト療法では、意識に登ってきたもの(ゲシュタルト)に対して、その時点で集中して、「完了」させることを重視します。

ゲシュタルト療法では、今ここの体験を重視します。
今、意識に昇ってきた心、感情などに気づき、十分に感じて受け止めます。
そして、それを言葉や体などで十分に表現します。
あるいは、無意識に出てしまっているしぐさや声色の変化などに気づいて、そこに表現されている感情、意味を体験しながら理解します。

ゲシュタルト療法では、フロイト派のように解釈は必要としません。
今、ここでの体験に集中して、そこに現れた心を「完了」させるのです。

ですが、人は、本来的な自己とは異なる価値観を取り入れてしまいます(イントロジェクション)。
そのために、受け止めて表現しきれない感情が生まれ、これが「未完了」な存在となって、何らかの問題ある現象を作り出します。

「未完了」なものは、脳裏に張り付いて強迫観念になったり、筋肉の中に入り込んで身体症状になったりするのです。
これが、今、ここに集中して様々なものを「完了」させることを邪魔すると考えます。


ユージン・ジェンドリンのフォーカシング指向心理療法では、はっきりとした言葉やイメージ、感情になっていないフィーリング的、雰囲気的なものを「フェルト・センス(感じ取られた意味)」と表現し、それに集中して、意識化します。

精神分析学では、このような表象化されていないもの(欲動、現実界)は意識できないと考えますが、フォーカシング心理療法では、これらを意識することが治療法の本質となります。

ジェンドリンによれば、「フェルト・センス」は意識の「縁(エッジ)」に隠れて存在している「未完了」な過程です。
ですが、それに集中して、イメージをふくらませて擬人化し、それと対話します。
この技法を「フォーカシング」と呼びます。

それを一回だけではなくて、長い期間に渡って続けていると、一歩一歩進展していく感覚があり、それとともに、「フェルト・センス」も自分自身も変わっていきます。
これを「フェルト・シフト(開け)」と表現します。

そして、それをさらに進めていると、どこかで「完了」した感覚が訪れます。

人間は常に成長、変化していて、精神のほとんどの働きは無意識に進行します。
ジェンドリンはこれを「体験過程」と呼びます。
そして、「体験過程」が、「フェルト・センス」によって意識の変容を促すのです。

「フォーカシング」の夢見の物語の展開は、一般的な一例をあげると、次のようになります。
最初は自分にとって違和感のある存在、敵対的な存在が登場します。
ですが、徐々にそれを理解し、それを受け入れる方向に自分が変化していくに従って、それがより肯定的なもの、友好的なものに変化していきます。


アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理療法は、ゲシュタルト療法やフォーカシングと類似した技法を使いますが、シャーマニズムやアボリジニーのドリーミング、仏教やタオイズムなどにも影響を受けていて、幅広い様々な技法を使います。

ジェンドリングが「フェルト・センス」と読んだ漠然とした意味感覚を、ミンデルは「センシェント」なものと表現し、「フォーカシング」と同様の手法を使って、イメージ化して物語として展開します。
ミンデルはこれを「センシェント・ワーク」と呼びます。

「センシェント・ワーク」の特徴は、意味の「エッセンス」のレベルに遡ってそれを直観したり、イメージのレベルでそれを展開したりを自由に行うことです。

プロセス指向心理療法では、ミンデルが「フラート」と呼ぶ、ふっと一瞬よぎるものや、なぜか注意を引くもの、その他様々なものを対象として、同様の手法を使います。

これらの手法も、フォーカシング同様に、無意識の過程が意識に促す変化を「完了」させることになります。

ミンデルは、最終的には、起きている覚醒時にも、夜の夢見の時にも、常に「センシェント」な自覚を保ち続けることを「24時間の明晰夢」と表現して、それを目指します。
彼は、これをチベット仏教の「大いなる覚醒」やヒンドゥー教の「サハジャ・サマディ」、タオイズムの「無為」であるとも書いています。


<ネオ・シャーマニズム>

伝統的なシャーマニズム、あるいは、ネオ・シャーマニズムには、過去の体験を思い出して再体験することで、過去に決着をつけて「完了」させる瞑想的方法があります。
これによって滞っているエネルギーを開放することができます。

トルテカに由来するシャーマニズムを継承していると主張した人類学者のカルロス・カスタネダは、世界中のヒッピー達などから絶大な支持を受けました。
彼の書いているものはフィクションではないかと疑われていますが、その内容には興味深いところもあります。

その彼が説く様々な方法の中に、「反復」と呼ばれる瞑想的な方法があります。

具体的には、自分が出会った人の一覧法を作って、順にその人との体験を現在から過去に向かって思い出します。
順番なしに心に浮かぶ順に思い出す方法もあります。

思い出す時には、なるだけ細部まで克明に思い出して、再体験するようにします。

この時、「出来事を扇ぐ」と呼ばれる呼吸法を使います。
頭を左に回転しながら息を吸い、記憶の風景のエネルギーを吸い込むとイメージし、左から右に回転しながら息を吐き、外来のマイナスのエネルギーを放出します。

「反復」は、ゴミのような記憶を表面へ浮かび上がらせて、閉じ込められていたエネルギーを解放する方法です。
これを行うことによって、心に新たなものを取り入れることができるようになります。
カスタネダは、「反復」という再体験によって体験のコピーを作ることで、死を越えて意識を保ち続けることができるようになると言います。

また、カスタネダは「履歴を消す」と呼ぶ方法として、すべての友人達に、全財産を使って贈り物をしながら、彼らに関する停滞した感情や記憶、恩義を精算することを勧めました。
「反復」は、これをとも関係しているでしょう。

このように、「反復」は、過去の体験を「完了」させる方法だと言えるでしょう。


カスタネダ同様、トルテカのシャーマニズムを継承しているというドン・ミゲル・ルイスには、「棚卸し」と呼ばれる、「反復」に似た方法があります。

「棚卸し」も、知人一人ごとに、過去の記憶を思い出して再体験するのですが、この時に、再解釈をしながら行います。
具体的には、過去の体験に本来的な自己を否定する姿勢があれば、それを自己肯定的な価値観から捉え直すのです。

また、呼吸法を使いますが、「愛」を思い浮かべて呼吸をしながら、それによって心の傷を清めます。

「棚卸し」と同様の方法で、過去ではなく現在を対象とした瞑想法もあります。
ルイスはこれを「忍び寄り(ストーキング)」と呼びます。
常に、自分の心の反応や判断、行動を意識し、そこに自己否定的なものがあれば、それを自己肯定的なものに変えていくのです。

「棚卸し」は過去の体験を、「忍び寄り」は現在の体験を、「完了」させる方法だと言えるでしょう。


ハワイのシャーマニズムのフナを継承いていると言うサージ・カヒリ・キングの場合、過去の過去の体験を、単に、再体験したり、解釈し直したりするのではなく、書き換えることも行います。

トラウマや後悔している記憶があれば、それを肯定的な体験としてイメージの中で体験しなおし、記憶を上書きするのです。
そもそも記憶は、事実そのものではなく、主観的な体験であり、変化していくものであり、単に夢と同じようなものなのです。

ただ、完全に置き換えると現実で問題が生じる場合は、記憶を追加してそこことを覚えていればよいでしょう。


以上の方法を総合して、例えば、次のような体験があった場合、次のようにそれを受け入れ、あるいは、再解釈し、あるいは、書き換えます。

・勇気がなくてできなかったことを後悔している
→自分を許し、できなかった理由となる考え方を変え、さらに、できたと想像する

・勇気をもってしたが失敗して後悔している
→行動した自分をほめて許し、今ならできると考え、さらに、成功したと想像する

・他人に悪いことをしたことを後悔している
→自分を許し、その人に謝り、そうしてしまった理由となる考え方を変え、さらに、良い方のことをしたと想像する

・自分は悪くないのに他人から批判されて腹立たしい
→その人を許し、自分をほめる、さらに、その人が自分に謝った、あるいは、自分を褒めたと想像する

・やりたいのにしなかったと後悔している
→自分を許し、しなかった理由の考え方を変え、さらに、そうしたと想像する

・望んでいたことが実現されなかった
→頑張った自分をほめる、、できなかったことを許す、望んでいたことが実現されたと想像する

・何かに対して、強い不安やプレッシャーを感じていた
→プレッシャーを感じる必要がなかったと考える、不安なくうまくできたと想像する、もっと別のやりたいことを行ったと想像とする

対処すべき未完了な無意識の記憶を自覚するためには、夢を利用することが有効です。
夢の場面設定などが過去に関わり、似た夢を何度も繰り返し見るような夢は、こういった記憶の表現です。
夢の対処を行うと自分に言い聞かせると、こういった夢を見るようになります。

これらの夢の意味を受け止めて、完了させると、その夢はもう見なくなります。
そして、代わりに、また別の夢が現れるので、それらを次々と完了させていきます。


<ゾクチェン>

チベットで仏教の最奥義とされるゾクチェンの思想は、「自己解脱」とか、「自然成就」、「あるがままで完成」と表現されます。

通常、心の現れは、煩悩によって汚れている、つまり、習慣的に固定されています。
ゾクチェンは、常に、心の現れに気づいていることで、心をその習慣から解き放ち、自然で自由な状態にして、最終的に消えるに任せます。

一般に、仏教は、心の現れを煩悩、雑念と捉えて、否定的に考えます。
「解脱」、「成就」という仏教の目標は、煩悩による輪廻を「完了」させるものですが、そこには心身を「消滅」させるという意味合いがあります。

ですが、ゾクチェンは、解脱した状態の心の本質は、縁によって無限に心を創造する性質を持っていて、その創造されたものは、本来、煩悩を持たない、解脱した状態にあると考えます。

また、ゾクチェンは、心の本質が、空の状態であり、自分自身に対して自覚を持った知の状態であると考えます。

ですから、たとえ煩悩に由来する心が現れても、自覚を保った状態であれば、その心を、即座に、意識的なコントロールをすることなしに、解脱した自由な状態に戻すことができると考えます。
そして、この自覚した状態を常時、保つことを目標とします。

ですが、それができなければ、煩悩が業を作るという因果がはてしなく続いていくことになります。

つまり、ゾクチェンは、心の現れに対して、禅のように無関心になるのでも、部派仏教のヴィパッサナーのように否定的に向き合うのでもありません。
中立的、ないし、肯定的に向かい合って、本来の「完了」する状態に戻し続けるのです。


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様々な「気づき」の瞑想

多くの瞑想においては、「気づき」が重視されます。
近年は、「気づき瞑想(マインドフルネス)」といった言葉も良く聞きます。

「気づき」が必要とされるのは、「気づき」がない状態では、なんらかの習慣によって束縛されているからです。

「気づき」が重視される瞑想法には様々なものがあって、その目的に違いがあります。
大きく分けると、「気づき」によって、意図的に自分の心を特定の方向に変える方法と、自然にまかせる方法(あるがままの瞑想)があります。

前者は、観察、分析して、心を意図的に変化させますが、それぞれの思想によって、分析の視点と変容の方向性が異なります。

後者は、「自然にまかせる」とはいっても、心身が習慣的な反復を脱するように仕向ける必要はあります。
ですが、変化させる方向性は意図せず、「なるがまま」に任せるのです。

以下、仏教系、スーフィー系、シャーマニズム系の「気づき」の瞑想について、その違いを見てみましょう。


<仏教系、ゾクチェン>

部派仏教の「ヴィパッサナー」は、内外のあらゆる存在(ダルマの個別の性質と共通の性質)を対象にして、その無常性など(共通の性質としての苦・無常・無我)を認識し、それらに対する執着をなくし、最終的にはすべての心の働きを捨てます。

アビダルマ哲学に基づいて、順次、対象を選んで瞑想していく方法が伝統的ですが、最近、「気づき瞑想」と言われているのは、例えば、呼吸などに集中して(アンカーと呼びます)雑念が生まれた時にそれに気づいて、それを対象にする方法です。

「気づき」は、対象を認識して、それに対する執着をなくして否定することを意図します。


それに対して、チベットで仏教の奥義とされるゾクチェンの瞑想での「気づき」は、意図を放棄します。

まず、絶対的な主体(空なる主体)への「気づき(リクパ、明知)」を維持しながら、現れる心の働きにも、常に気づいていることを目指します。

ゾクチェンは、心を創造することが、絶対的主体の本性だと考えるので、心の働きを単純に否定はしません。
また、積極的に現れた心を保持したり、特定の方向に変容しようとしたりもしません。
自覚を保ちながら、心の働きが、自由に、自然になりゆき、消えるまでを観察します。

絶対的な主体に対する「気づき」を維持するという点では、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジとも共通します。


<スーフィー、グルジェフ系>

イスラム系の神秘主義であるスーフィーや、現代の神秘家のグルジェフが行う「停止の行」は、自分の心のあり方に「気づき」を維持しているかどうかをチェックするための方法です。

常に「気づき」を維持することが求められるのですが、どうしても忘れてしまうので、師がいきなり「停止」を宣言した瞬間に、すべての行動を止めて、その瞬間の自分の心をしっかり認識します。
こうして、「気づき」の維持を目指します。

グルジェフは、集団生活で修習を行いますが、これは常に互いを観察することで、自然に「気づき」の思い出すためです。

グルジェフの「自己観察」と「自己想起」も「気づき」の方法です。

「自己観察」は、常に自分を内省して、感情、思考、行動、本能、性などの働きが分裂していないかを分析します。

「自己想起」は、外の世界(感覚)と内の世界(自分の反応)を同時に意識することで、第3の真の自己が現れるようにします。

つまり、グルジェフの「気づき」は、メタレベルの自覚する自己によって、様々な働きの本来的な調和をもたらす方向に意図してきに変化させるためのものです。


<シャーマニズム、ネオ・シャーマニズム系>

メキシコのトルテカのシャーマニズムを継承するというドン・ミゲル・ルイスの「ストーキング(忍び寄り)」も、常に現在の自分の心への「気づき」を重視します。

「ストーキング」では、日常の中で、自分の心の中、本来的な自分自身を否定する働き、考えがないかを分析し、それを追い出して肯定的な考えに変え、あるがままの自分を受け入れます。

つまり、「気づき」は、自己否定的な働きへの「気づき」であり、あるがままの自分を愛する方向に、意図的に変化させるためのものです。


ハワイのシャーマニズムの「フナ」を継承しているというサージ・カヒリ・キングの「ナル」の瞑想も、様々な自分の心への「気づき」を要求します。

「ナル」は、心の動きに気づいて集中しますが、それに対して中立的、ないしは、肯定的(おだやかで心地よい期待感)な姿勢でいるようにします。
そうすると、その対象にエネルギーが流れて、活性化し、自然に肯定的な方向に変化をすると考えます。

外部の対象に集中する場合も、同時に内部の反応にも中立的に気づいていれば、同様です。

「ナル」の「気づき」は、ゾクチェンと似ていて、心の働きを意識化することで、それを自然に変化させるのです。

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Author:morfo
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