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只管打座(日本曹洞宗)

日本の曹洞宗の坐禅の特徴は、「只管打坐」(「唯務打坐」、「祗管参禅」)です。

これは、仏を目指すといった目的を持たず、意図的な作為をせずに、ただ無心に座るのが「只管打座」です。
つまり、目標もメソッドを持たないことを特徴とする瞑想法です。
公案という課題を持って行う臨済宗の公案禅とは、まったく異なります。

「只管打坐」は、道元禅師が教えた方法ですが、実は、長らく、日本の曹洞宗は、臨済宗の公案禅を行ってきました。
それを、昭和になってから、澤木興道禅師が「只管打坐」を復活させました。


道元禅師は、人はもともと仏性を持っていて、煩悩があっても悟りはそれを超えているので、煩悩をなくす必要がないと考えました。
しかし、分別的な意識が生じると、仏性から離れてしまいます。
ですから、本来的に仏であることを明らかにするために、坐禅が必要となります。
これを、「本来の面目が現前」(普勧坐禅儀)とも表現します。

「只管打坐」は、凡夫が仏を目指して行う「習禅」ではなく、仏として座っている「仏行」です。
これは、「本証妙修」とか「修証一等」、つまり、「仏の悟り(証)」と「修行(修)」が同時であるとも表現されます。

ですから、坐禅は、体系化された修行道に当てはめることができず、階梯のワンステップとしての「禅(定)」ではなく、「仏法の全道」(弁道話)であると表現されます。


具体的な方法は次の通りです。

座る体の姿勢は、特別なものではありません。

*具体的な姿勢に関しては、下記のページなどをご参照ください。
坐禅の作法(曹洞宗 曹洞禅ネット)
坐禅の仕方(安泰寺)

心のあり方は、特定の対象に集中せず、あえて言えば、すべてに平等に気を向けて、観察する主客の分離をなくします。
概念的な分別以前に、意識をフォーカスして対象に向けることもせず、主客を分離させません。

何かに気を取られたり、雑念が浮かぶと、それを自覚して、そのまま捨て(消滅させ)ます。
しかし、「雑念を対象化し抑える」という作為性を持ちすぎるといけません。

作為性なしに対象を取らない状態になるのは難しいことですが、そのためのに「只管打座」が重視するのは、単純に、姿勢です。
「正身端坐」と言って、正しい姿勢に徹底的にこだわります。
姿勢と心は一体(身心一如)であり、正しい姿勢なら、必然的に正しい心の状態であると考えるからです。
内山興正禅師は、「正しい坐相をねらい、その姿勢にすべてをまかせきっていく」と言います。

一般に、禅では、「調身(正しい座禅の姿勢をとる)」から「調息(呼吸を数えて整える)」に、そして「調心(心を落ち着かせる)」に進むと言われますが、実際には、「調身」だけに気をつけていれば、「調心」は達成されていくのです。

道元禅師は「調息」について、「永平広録」で、作為的な呼吸法を行わず、自然に任せるようにと教えています。

ただ、瑩山禅師の「坐禅用心記」には、心が沈み込んでいる時には意識を眉間や髪の生え際に、落ち着きがない時には鼻先や臍下丹田に、普通の状態の時は、左の手の平に置くように教えています。


*ヴィパッサー瞑想やゾクチェンの瞑想との違い、ヴィパッサナー瞑想への批判などについては下記姉妹サイトのページをご参照ください。

只管打座 と他のメソッドとの違い

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一念三千の瞑想(中国天台宗)

中国天台宗の実質的な開祖的存在である天台智顗が書いた瞑想指導書は、天台宗に限らず、中国、日本の各宗派の瞑想法に大きな影響を与えました。
ちなにみ、中国で「禅」とか「禅門」というのは、もともと天台宗のことを指していたのは、天台宗が瞑想を特長としていたからでしょう。

智顗は『次第禅門』、『天台小止観』、『摩訶止観』と3つの瞑想指導書を書いています。
本稿では、智顗の完成された思想を反映した止観の方法が説かれる『摩訶止観』から、その中心的な観法である「一念三千」の瞑想法について紹介します。

『摩訶止観』の特徴は、「止」に関して「四種三昧」を、「観」に関しては「十境十乗観法」や「一念三千」を説くところです。
しかし、「止」と「観」は厳密に区別されず、ほとんど一体化されています。


「一念三千」の瞑想法は、正行である「正修止観」の「十境十乗観法」の中で行います。

「十境」の中では、「陰入界境」が一番重要な対象です。
具体的には、「五陰(五蘊)」、「六境」、「六根」、「六識」です。
智顗は心がすべてを作り出すという唯識的な発想を持っているので、「陰入界境」の中でも、まず、「識(心・思考)」を対象として観察すべきであるとします。

「十乗」の中では、「不可思議境の観察」が重要とされます。
これは、対象の世界が概念的な理解を越えているということの観察です。
その観察法の一つが、「一念三千」の観察です。


「一念三千」は、一つの心の中に、「十法界」、「三界」、「十如是」を組み合わせた3000の性質を見るという観法です。

「十法界」は、「六道(地獄~神々)」、「二乗(声聞・独覚)」、「菩薩」、「仏」の十の世界であり、いずれも心が生み出すものです。
そして、それぞれの世界には、潜在的に「十法界」全体が存在すると観察します。
これを「十界互具」と言います。

また、それぞれの世界には、心身の構成要素としての「五陰(五蘊)世界」と、生き物としての「衆生世界」と、容れ物としての「国土世界」の3つの世界があると見ます。

「十如是」は、以上の世界のそれぞれが持っている十の性質・側面です。
具体的には、「相」、「性」、「体」、「力」、「作」、「因」、「縁」、「果」、「報」、「本末究竟等」です。
「本末究竟等」は、「相」から「報」まですべてが「空」という点では同じであるという性質です。

こうして、一つ一つの心の中に、この「三千世界」があると観察していきます。
そして、一つの心と三千世界は、どちらかが先にあるというものではありまえん。
一つの心が「三千世界」を生むのでもなく、一つの心が三千世界を含むのでもないと考えます。
そのあり方が、精妙で、不可思議、つまり、概念的認識を越えていると観察します。

『摩訶止観』の瞑想法・修行体系に関して詳しくは、姉妹サイトの「摩訶止観」をご覧ください。

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