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ヤンティ・ナクポの暗黒のヨガ


仏教の最奥義であるゾクチェン(アティ・ヨガ)の、最終段階であるトゥゲルのさらに奥に位置する教えがヤンティ・ヨガと呼ばれます。
その暗黒部屋で行う瞑想法が、「ヤンティ・ナクポ」の「暗黒のヨガ(ムンツァム)」です。

この瞑想法は、光をまったく通さないこの瞑想専用の部屋の中に、一週間以上籠もって行います。
心臓と大脳の神経叢にある原初的な心の運動性(煩悩のない法界の運動性)を、最終的には視神経を通して外に出し、様々な光や尊格として見ることで、煩悩を滅していきます。

この瞑想法は秘密性が高く、これまで具体的な方法は知られていませんでしたが、中沢新一が新著「精神の考古学」で、自分の体験を織り交ぜながら大まかな部分を公開したので、これをまとめる形で紹介します。


「ヤンティ・ナクポ」は、15Cにテルトンのドンツォ・レパ・チマが再発見した埋蔵経典です。
元はカギュ派で伝承されていましたが、ニンマ派のゾクチェンの最奥義の位置づけがされるものになりました。

「暗黒のヨガ」の準備として、まず、ゾクチェンの本行である「テクチュウ」と「トゥガル」を、加行として行います。
その後、「シトの灌頂」を受ける必要があります。

ニンマ派では、心臓に48の静寂尊、大脳に52の忿怒尊がいるとされ、合わせてシト100尊と呼ばれます。
心臓と大脳にある原初的な心の波動を100尊として見るのです。

これらのシト100尊は、死後にも現われるとされます。


「暗黒のヨガ」には、独特の神経生理学理論があります。
通常の究竟次第のヨガでは、中央管と左右管を観想しますが、トゥゲル(ヤンティ・ヨガ)では、これらとは異なる、光の顕現を生み出す特別な4つの脈管と、4つの灯明が語られます。

「青空のヨガ」では、まず、「カティシェル(水晶管)」という水の元素の力でできた心臓と眼をつなぐ微細な緑白色の脈管と、「遠方に通達する投げ縄としての水のランプ」と呼ばれる灯明から金剛連鎖体(ドルジェ・ルクギュー)を現わします。
 
ですが、「暗黒のヨガ」では、大脳と視神経をつなぐ脈管が重視されます。


密教では、意図的にプラーナをコントロールして脈管に圧力を加えますが、「暗黒のヨガ」では、そのような操作をしません。
ですが、独特の観想を使った刺激が行われます。


通常の「暗黒のヨガ」は、7日間をかけて、専用の部屋に籠もって行います。
それぞれの日に名称があって、以下のようなプロセスとなります。

・1日目:原初的知性の独眼に汚れなし

大脳の蓋の内部に法螺貝の形の透明な水晶の器のような宮殿があり、そこに五色の光を放つ一個の球体を観想します。
また、眉間に憤怒の形相をした原初的知性の青い眼があって、大脳の中を覗き込んでいると観想します。
すると、脳内に豆粒くらいの光の玉(ティクレ)が現れてきて、光が強くなっていきます。

・2日目:二様の顕現を分別する心を超越する

脳内を凝視する眼を、左右2つに増やして観想します。
また、心臓の神経叢に集中していると、光り出します。
そこに、48の静寂尊が現れていると考えます。

・3日目:3つのリクパは清明にして純粋

脳内を凝視する眼を、眉間と左右の3つに増やします。
脳内宮に52の忿怒尊が現れていると考えます。
忿怒尊はエネルギーが大きいことを表現します。

*他の書(経典)では、心臓の48尊が上昇して変化をとげると書かれているものがあります。

・4日目:遷移ある篩(ふるい)の如し

後頭部や耳の後ろに眼を増やして8つにして、それによって脳内宮を光で満たします。
すると、光が体内にも充満するようになり、その光が細い糸の網を編むようになります。
そして、体の回りにも光の網目が張り巡らされるようになります。

・5日目:心臓の神経叢を端正に整え観察せよ

心臓部の神経叢を静かに整えて、ここに新しく眼を一つ作り、頭部の8つの眼と向かい合わせます。
すると、頭部の眼から光が溢れ出るようになります。

・6日目:盾と秡(楽器のはつ)を打ち合わすが如く

脳と身体の光が激しく動き、全身に無数の眼が出現して睨み合い、そこから放たれる光がぶつかりあって火花を放つようになります。
そして、視床下部の当たりから光の雲が広がり、渦をなして7色のスペクトルに分かれて回転し、そこから光の塊が飛び出して空間に浮かびます。

・7日目:仙人の蹲踞(そんきょ)法で見る

仙人の蹲踞法は、体を丸くしてしゃがむ、または膝を折り立てて腰を落とした立膝をつく座法です。
これまで作ったすべての眼で周囲の暗黒を凝視し、そこが清浄な法界に変容していると想います。


「暗黒のヨガ」を行うと、自分の本質が光であると知るようになります。
また、大きな慈悲心が沸き起こって、すべての有情との同質性を感じるようになります。

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ゾクチェンのグル・ヨガ

「ゾクチェン(マハーサンティ、大究竟、アティ・ヨガ=原初のヨガ)」は、チベット仏教のニンマ派や、チベットのボン教が、最高レベルの教えとして伝承している思想です。
中央アジアで生まれた思想と推測されていて、「あるがまま」を重視する瞑想を行います。

ゾクチェンについては、当サイトの「セムデ(ゾクチェン)」や、姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の「ゾクチェン・マハームドラー(任運乗)の修行と思想」をご参照ください。

密教の「グル・ヨガ」(「六座のグル・ヨガ(ゲルグ派)」参照)では、特定の祖師の姿を観想し、マントラと共に智慧薩埵を勧請し、加持を受ける観想を行います。
ゾクチェンの「グル・ヨガ」でも同様の観想を行うこともありますが、ゾクチェン特有の「グル・ヨガ」では、もっとシンプルな方法(真言宗の「阿字観」とも少し似ています)で行います。

密教は特定の形をした祖師を自分の外部に観想しますが、ゾクチェンはより抽象的な「ア字」と「ティクレ(心滴)」だけを自分の内部に観想するのです。

具体的には、まず、心臓のチャクラに「白いア字」と「5色のティクレ(虹色に輝く光の輪)」を観想し、「アー」と唱えます。
必ずしも発声せずとも、心の中で発声しても構いません。

観想した「ア字」と「ティクレ」は、根源的な心の象徴であり、すべての如来・祖師の境地の象徴です。

細かく解説すると、ここには3つの次元があります。
まず、最も根源的な存在で「音」であるア字、そして次に「光」である白、最後に「光線」である5色のティクレです。
「音」は存在の母体であり、「光」は存在の創造力であり、「光線」は存在のエネルギーです。
ア字は根源的なマントラと言えますが、その本質は、もちろん物理的な音ではなく、根源的な心の運動性です。

そして、ア字の音、眼前の空間と一体化した状態になります。
これは、無概念・無イメージであり、かつ、自分自身に対して自覚を持った状態です。
ゾクチェンが言う、原初の境地、明知、三昧、心の本性の状態です。

また、その後、集中力を緩めてリラックスすると、様々な概念やイメージが生まれてきます。
ですが、それについて行く(執着して自覚を失う)ことなく、だた、観察することで、生まれてきたものを自由に解放します。


ア字のイメージ(http://en.wikipedia.org/wiki/File:White-A-1Anime250.gif)

トゥゲル(ゾクチェン)

「トゥゲル(超越)」は、「ゾクチェン」の最終段階の瞑想法で、「三昧を深める」ための方法です。
「光の顕現の修行」とも、「ヤンティ・ヨガ」とも呼ばれます。

「トゥゲル」では、カルマのない、根源的な次元、つまり、光である元素のエレメントの次元の現れに、意識と身体を転移させます。
それによって、仏の三身とは異なる「虹の身体」を得ることができます。
つまり、体を虹にしてしまう修行です。
「虹の身体」は「報身」よりも活動的で、他者と直接的に接触して救済することができる存在だそうです。

「トゥゲル」では、ハタ・ヨガのような、特殊な体位、呼吸、視線、気の操作などを駆使します。
青空や、太陽の近くや、何もない空間を凝視したり、何日も暗闇の部屋に籠って暗闇を凝視したりして、瞑想を行います。
そして、視覚神経と胸や眉間のチャクラを結ぶ脈管などを刺激して、光の微粒子を放出して、光の顕現の4段階を順次体験していきます。

光の顕現の4段階は、次の通りです。

1 法性の顕現
2 顕現の増大
3 顕現の完成
4 顕現の消滅

この光の顕現の4段階は、カルマが完全になくなった時に、「心の本性」と呼ばれる心の母体から心が現れるステップです。

また、日常的な心の様々な現れを、その光の顕現と一体化することで、より完全に開放したものにすることができるようになります。

密教では形象的な象徴である尊格を重視し、意識的にコントロールして観想するのに対して、ゾクチェンでは、作為をほとんどしません。
自然に現れる、抽象的で普遍的な、光の粒子や音や光線が作る諸パターンを観察します。
ただ、第三段階の顕現では、尊格が現れます、必ずしも本質的ではないと思います。

「トゥゲル」の具体的な方法に関しては、チベット仏教ニンマ派の方法は公開されていませんので、以下、簡単にボン教の方法を紹介します。


<4つの方法>

まず、光の顕現を見るための4つの方法があります。
これは、ポーズや視線、見る対象に関する方法です。

1つ目の方法は、気をコントロールするための身・口・意に関する方法です。

「身」はポーズ、ヨガで言うアーサナで、次の4つのポーズがあります。

「座っているライオンのポーズ」:心の本性に留まるためのポーズで、しゃがむ姿で肛門を締める
「伏せる象のポーズ」:顕現が外界に立ち現れるためのポーズで、両肘を地面につけてあご先を両手で支える
「仙人のポーズ」:思考を断ち切り、内外の顕現を発展させるためのポーズで、胸に両膝をつけて両腕で包み込み、首を後ろに反らす
「アヒルが横に動くようなポーズ」:気が中央管に入りやすくなり初心者が顕現を現れやすくするためのポーズで、右ひじを地面に付けて顎先を支えながら右側を下にして横になる

「口」は、話すことを止めるというシンプルなものです。
「意」は何もない空間を凝視するという視線に関するものです。

2つ目の方法は、視線とポーズを合わせてもので、ヨガで言うムドラーに近いものでしょう。
「座っているライオンのポーズ」では上方を凝視し、「仙人のポーズ」では下方を凝視し、「伏せる象のポーズ」では左右どちらかを凝視します。
両目は半眼にし、視線を固定して、太陽の下方を見ます。

3つ目の方法は、凝視する対象に関するもので、澄み渡った空を凝視します。
最初は日の出か日の入りに行うと光の顕現が現れやすいとされます。

4つ目の方法は、呼吸に関するもので、穏やかに呼吸することで、心と気を脈管の胸のところで出会わせます。


<4つの脈管>

次は、光の顕現を生み出す、特別な4つの脈管に関する説明です。
これらの脈管に気を移動させ、刺激することで、光の顕現を現わすのでしょう。

「大いなる金の脈管」は、心臓と中央管をつなげています。
内側には光明のエッセンスが輝いていて、寂静尊が立ち現れます。

「白絹の糸」と呼ばれる脈管は、心臓から背骨を上に登って首のところで中央管から離れ、脳の外側を進んで右眼と頭頂に分岐します。
頭頂では思考を離れた大いなる「明知」が立ち現れます。
完全な顕現においては、脈管の中に9つのティクレ(心滴、光の粒)が積み重なって立ち現れます。

「細いより糸」と呼ばれる脈管は、中央管の心臓のところから中央管の下部まで降り、4つのチャクラを通って頭頂まで再び上昇して、脳の外側を通って左目に至ります。
この脈管によって、根源的な光明の顕現が直接輝きます。

「水晶のチューブ」と呼ばれる脈管は、心臓と眼を結びつけています。
この脈管によって、一切の顕現が心の本性へと溶けていきます。


<4つの灯明>

「4つの顕現」が現れる前に、その元となる「4つの灯明(光)」というのが順に現れます。

最初の「水の灯明」は、透明な空を凝視する時に現れるもので、心臓の内側から現れてきます。
深い青色をした透明な色彩が現れ、ここから五色の光と様々な形をした光線が広がります。

次の「空のティクレの灯明」と「清浄な空性の灯明」は、現れの回りにさざ波が現れます。
最初は無色のさざ波が現れますが、粗い気が浄化されると、五色のさざ波が現れます。
その内側を見ます。

「明知」が明確になると、「自発的に現れる智慧の灯明」が現れます。
真珠と金糸のように透明な光が智慧そのものとして現れます。


<4つの顕現>

光の顕現の4段階は、以上の瞑想を行って、意識的に観想するのではなく、「心の本性」に留まっていると、カルマがなくなるに従って、自然に現れます。

1 「法性の顕現」では、「心の本性」が宿る心臓のチャクラから、音、光のティクレ、5色の光線が多数現れます。

最初に多数のティクレが現れ、常に動きながら、時にはビーズのように並びます。
まだ、角張った模様の中を微細なティクレが動いていきます。
顕現は気と連動しているので、常に動いています。
顕現に捉われて追いかけず、心の本性に留まるようにします。

2 「顕現の増大」ではそれらの表れが多様な形象を形作ります。

五智が五色の光線となって現れ、眉毛から上方へ飛び去ります。
顕現は網のように透き通っていて、花は卍や宝石や宮殿や曼荼羅でできた花輪で飾られたように、様々な形として現れます。
顕現は、最初は一瞬の飛び去るようですが、徐々に安定していきます。
そして、宇宙と同じくらいの大きさになり、揺らぐことがなくなります。
時に、ティクレは楯くらいの大きさにまでなります。

3 「顕現の完成」では、多数の尊格の曼荼羅が自然に現れます。

大きく現れたティクレは、その外側の周囲が五色に彩られ、内側に曼荼羅が現れます。
寂静尊は胸のチャクラから、忿怒尊は眉間から投射されるように現れます。

これらは、密教の生起次第のように意識的に観想するのではなく、自然に現れます。
しかし、実際には、あらかじめ、観想したり灌頂を受けるなどして尊格に親しんでいないと、現れないでしょう。

また、この顕現が外界と溶け合っていき、すべての顕現が解放されます。
この段階で、脈管は完全に浄化され、完全に業のない顕現が完成します。

「顕現の完成」を達成すると、仏の三身が完成します。
また、死後に「虹の身体」を得ることができるようになります。

4 「顕現の消滅」は、顕現が完成した後、自然に消滅へと反転する段階です。
肉体も消滅へと向かいます。

満月にようになった顕現は、月が欠けるように小さくなり、ティクレの大きさに戻ります。
そして、心の本性の中に溶け入ります。
肺から心臓に伸びた脈管が完全にほどけ、日常の顕現も含めてすべての顕現が消滅します。

肉体は業の現れなので、業が完全になくなった時点で、物質の根源であるエレメントの光でできた「虹の身体」に解消されます。
顕現が消滅へ向かった時、指を見ると、光で包まれているのが見えます。
この光に意識を集中することで、生きている間に肉体を「虹の身体」に解消することができます。

テクチュー(ゾクチェン)

ゾクチェンの「テクチュー(解放)」というステップの瞑想法は、日常のどんな状態でも常に「三昧」の状態を「維持する」ための瞑想法です。

ゾクチェンで言う「三昧」は、心の本質が持つ「気づき」を保ったままの状態です。
「気づき」を「維持する」場合、心をコントロールせずに、現れたものを、そしてそれが変化することを、あるがままに認め、ただ、観察して体験します。

「三昧を維持する(テクチュー)」瞑想に至る前に、「三昧に入る」瞑想と、「三昧の疑いをなくす」(気づきを増して、体験をよりはっきりと理解する)瞑想が必要です。

ゾクチェンには、3つの体系があって、「セムデ(心の本性の部)」は「三昧に入る」瞑想から、「ロンデ(法界の部)」は「三昧を深める」瞑想から、「メンガキデ(ニンティク、ウパデシャ、秘訣の部)」は「三昧を維持する」瞑想から始めます。

「セムデ」では顕教や禅に近い止観的な方法で三昧に入りますが、「ロンデ」や「メンガキデ」は密教的で、観想法を使ったり、ハタ・ヨガ的な様々な体位法や呼吸法、ムドラー、そして究竟次第的な気の操作などを駆使して三昧に入ります。


では、三昧を維持する「テクチュー」瞑想法についてです。

「ロンデ」では、「4つ象徴」の瞑想法があります。
身・口・意とその統一という構成で、これは最後を除いて、段階的なものではありません。
「光明」、「楽」、「空」を身・口・意の象徴と見るのでしょう。

具体的には、まず、父タントラ的な究竟次第の気のコントロールによって「光明」を体験して、三昧を維持します。
引き続いて、開眼で、あらゆるヴィジョンの現れを体験しながら、三昧を維持します。

また、両眼を開けて虚空を凝視し、現れのない「空」を体験しながら、三昧を維持します。
引き続いて、思考の現れを体験しながら、三昧を維持します。

また、おそらく母タントラ的な究竟次第の気のコントロールによって「大楽」を体験しながら、三昧を維持します。
引き続いて、「大楽」でない状態になっても、三昧を維持します。

最後に、3つ方法を統一し、一緒に行って、三昧を維持します。


次に、「メンガキデ」では、「4つあるがまま」の瞑想法があります。
これも最後を除いて、段階的なものではありません。
「メンガキデ」の瞑想が、本格的な「テクチュー」です。

まず、特定の姿勢をとらずに、様々な姿勢で三昧を維持します。

また、特定の視線をとらずに、三昧を維持します。

また、いろいろな体験をしながら、三昧を維持します。
意識的なコントロールをせずに、何が現れても、何をしていても、あるがままの境地にとどまります。

最後に、3つの方法を同時に実践しながら、清浄な現れと、業による不浄な現れのすべてを、自分のエネルギーとして三昧の中で経験します。

セムデ(ゾクチェン)

「ゾクチェン(マハーサンディ、大究竟、アティ・ヨガ=原初のヨガ)」は、チベット仏教のニンマ派や、チベットのボン教が伝承している思想です。
中央アジアで生まれた思想だろうと推測されていて、「マハームドラー」と同様に、「あるがまま」を重視する瞑想法です。

「あるがまま」というのは、心をコントロールせずに、心に自然に現れたものを、そしてそれが変化することをそのまま肯定するという考え方です。

しかし、煩悩のある心をそのまま肯定するということではありません。
マハームドラーとゾクチェンでは少し違いますが、ゾクチェンでは、煩悩によって起こる不浄な心も、それが現れるやいなや、自然に清浄な心に変化することを目指します。

そのためにゾクチェンでは、心に何もない心の基盤、心の本質を理解することが重要です。
この状態には、「気づき」があると言います。
ゾクチェンでは、この心の本質の「気づき」を持った状態を、「気づき」に気づいて、あるがままの創造性を受容している状態を、「三昧」と言います。
一般に「三昧」の意味は、何らかの心の対象と一体化している状態ですので、これはゾクチェン独特の定義です。

ゾクチェンの瞑想は、4種類の階梯で考えることができます。

1 「三昧に入る」
2 「三昧の疑いをなくす」(気づきを増して、体験をよりはっきりと理解する)
3 「三昧を維持する」=「テクチュー(解放)」
4 「三昧を深める」=「トゥゲル(超越)」

ゾクチェンには、3つの体系があって、その一つ「セムデ(心の本性の部)」は「三昧に入る」瞑想から始めます。

「セムデ」瞑想法は、「四ヨガ」と呼ばれ、「ハマームドラー」の「四ヨガ」と似ています。
「ハマームドラー」の「四ヨガ」が、ゾクチェンの影響を受けたからでしょう。

最初の「寂静」は、意識と視線を「空間」に固定して、心の現れ、雑念を静めて、心の本質が持つ「気づき」を見出します。

次の「不動」では、意識的なコントロールを行わずに、自然に思考やイメージが自然に現れるようにします。
その時、現れたものをただあるがままに観察しつつ、「寂静」で得た心の本質が持つ「気づき」を保ち続けます。

3番目の「不二(一味)」では、現れのない「寂静」の状態と、現れのある「不動」の状態の両方が生じるようにします。
そして、どちらも同じ心の2つの側面であると理解します。

最後の「任運(あるがまま)」では、様々な体験の中で、「気づき」を保つようにします。
現れのない状態も、ある状態も、すべての体験が心の本性の異なった側面であることを認識するので、「三昧に体験を統合する」とも表現されます。

具体的には、身・口・意の3門で行います。
「身」では、まず、五体投地をしながら三昧を維持します。
そして、歩く、寝転ぶ…と様々な行動をしながら三昧を維持します。
「口」では、まず、マントラを唱えながら三昧を維持します。
そして、様々な言葉を話しながら三昧を維持します。
「意」では、様々に思考をし、判断をしながら三昧を維持します。

こうして、最終的には、意識的なコントロールなしに、心に現れものすべてを、あるがままで完全なたわむれとして経験します。
そして、煩悩のない清浄な心の現れと、煩悩によって起こる不浄な心の現れの一体性を認識します。
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morfo

Author:morfo
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