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空観(中観派)

中観派は、インド大乗仏教の2大学派の一つで、「空性」(すべての存在には本質・実体性がない)を中心教義としています。
インド、チベットの中観派の伝統の「観」の瞑想(真理を認識する瞑想)は、「空」の教学に沿って行われますので、広い意味で「空観」と呼ぶことができます。
そうして、無概念の直観的な認識を得ると共に、それを概念的に理解する智慧も獲得します。

具体的には、まず、教義に沿って、例えば、以下のような概略に沿って瞑想します。

「四念処(体、感覚、心、法には実体がない)」の瞑想によって、すべての存在が「空」であること(法無我)を考察します。
つまり、すべての存在は実体ではなく、幻のようなものであると考察して、小乗の経量部などの実有論を避けます。

五蘊(感覚器官・感覚・イメージ・連想や感情・思考)のどれも自分ではないと考察して、私という実体はないこと(人無我)を考察します。
つまり、心(識)もまた実体ではなく、幻のようなものであると考察して、唯識派の唯心論を避けます。

すべての存在は、他の存在を原因として生まれる(縁起)存在であるから、実体ではなく、本質を持たない(空)ことを考察します。

実体を持たないといっても、何も存在しないということではなく、実体を持たないというあり方で存在しているのだと理解することで、「有」にも「無」にも偏ることがない立場(中)に至ると考察します。

煩悩をなくして一切智を得て仏になるためには、「空性」を悟ことが必要である。
「空性」の認識によって慈悲の心を生み、功徳を積むことができると考察します。


また、「空」の考察の方法として、チベットも含めて密教時代以降は、帰謬法(背理法)を使うことが良く行われます。
つまり、Aが実体であると仮定する。
AはBであるか非Bであるかのどちらかである。
しかし、Bは成り立たない or BだとAは実体ではない。
また、非Bも成り立たない or 非BだとAは実体ではない。
だからAは実体ではない。
という論法で考察をします。

例えば、「人無我」に関しては、人は五蘊と一体であるか別であるかのどちらかである。
人が五蘊が同じならば、複数の存在に依っているので人は実体ではない。
人と五蘊が別ならば、人としての五蘊とは別の何かが見つかるはずだが見つからない。
従って、人は五蘊よって仮説されたものに過ぎなく、実体ではない。

他にも、「〇〇は単数であるか複数であるかどちらかである」、「〇〇は一瞬前の存在と同じであるか違うかどちらかである」といった論法を使います。

このような論証・考察を徹底的に行うことを経て初めて、無概念の「空」の認識に至ります。

また、論証ではなく、本質(自性)をつきつめて瞑想するうちに、それが否定される状態(空)に至るような瞑想の方法も行われます。

例えば、目の前にある「本」について考察します。
まず、「本」が実体であるとして、その本質を見極めようとします。
これを「正理知」と言います。
そのためには、「本」の偶有性、例えば、「厚い」とか、「カバーがある」とか、「本」が「本」たる所以となる本質的な属性でない性質を捨てていきます。

すると、「本」そのものを見出すことができず、虚空のような無限の広がりを体験することに至ります。
こうして、逆説的にも、無概念な状態で「空」を理解することになります。

以上のように、帰謬法であれ、正理知であれ、対象を分析的に観察することを通して、初めて無概念の直観的な「空」の認識に至ります。

この無概念での認識を「等引智」、「虚空のような空性」と呼びます。

その後、日常的な認識の状態に戻ると、また、「本」を「本」として認識することになります。
しかし、今度は、以前のように「本」を実体としてではなく、「幻」のような存在として認識するようになります。
この認識を「後得智」、「幻のような空性」と呼びます。

そして、分析的な「観」と、無概念の「止」(集中一体化する瞑想)を順に等分に行うことで、「等引智」と「後得智」を深めていきます。

やがて、分析を行っているうちに、それを意識的に行わずとも、自然に正しい認識が行われる状態になります。
この時、「止」と「観」が同時に行われる「止観双運」の状態になっています。

さらに続けていくことで、最終的には、「等引智」と「後得智」が一致することで、悟りに至ります。


*中観派とその瞑想修行法については、姉妹サイトの「中観派と般若学」や、もう一つの姉妹サイトの「仏教の瞑想法と修行体系」をご覧ください。
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唯識観(唯識派)

唯識派は、インド大乗仏教の2大学派の一つで、「唯識性」(すべての認識世界は心の作用によって表象されたものにすぎない)を中心教義としています。

唯識派に独特な、観の瞑想法(真理を認識する瞑想法)である「唯識観」の瞑想法を紹介します。
だた、これは直観的に真理を認識するに至るための準備的な「加行道」と言われる段階の瞑想法です。

「唯識観」は、伝統的には「四善根」と呼ばれる瞑想法に当たり、小乗仏教(説一切有部)や中観派でも行いました。
ですが、唯識派では唯識派の教学に沿って独特の方法で行うため、「唯識観」とも呼ばれる観法です。

「唯識観」は4段階から構成されていて、最初の2段階は「四尋思観」と呼ばれます。

まず、認識の対象となる「言葉」、「概念」、「主語性(実体)」、「述語性(属性)」の4つは、いずれも心が作り出した仮の存在であり、実体としては存在しないと考察します。(法無我)

第1段階(煖)の瞑想は「明得定」と呼ばれます。
第2段階の(頂)は、より思索を深める段階で、その瞑想は「明増定」と呼ばれます。 

後半の2段階は「四如実智観」と呼ばれます。

先の認識の4つの対象を作り出した「主体」も存在しないと考察します。(人無我)

第3段階(忍)は、第四禅(概念なしに対象と一体化した瞑想状態)で、対象に続いて主体の空を考察します。
その瞑想は「印順定」と呼ばれます。


*唯識派については姉妹サイトの「瑜伽行唯識派」を、また、特にその修行体系に関しては、もう一つの姉妹サイトの「成唯識論」(唯識派:護法):総論、その具体的な瞑想法に関しては、「成唯識論」(唯識派:護法):各論をご覧ください。

「因果の七秘訣」と「自他交換」の瞑想(中観派)

「因果の七秘訣」と「自他交換の瞑想」は、インドやチベットの中観派の伝統で行われている、大乗仏教の代表的な菩提心を起こす慈悲の瞑想です。

チベットでは、「因果の七秘訣」はアティーシャが伝えたもの、「自他交換の瞑想」はシャーンティデーヴァの『入菩提行論』に由来します。

「因果の七秘訣」は、すべての生き物が自分の母だったことがあると考えて、慈悲の心を生じさせる瞑想法です。
「自他交換の瞑想」は、自分と他人を置き換えることで、利己的な心を利他的な心に変える瞑想法です。
以下、具体的に紹介しましょう。


「因果の七秘訣」の瞑想は、以下のように考察する瞑想です。

「すべての生き物は限りなく輪廻しているので、すべての生き物は自分の母だったことがある。
未来に母になることもあるし、友だったこともある。
すべての生き物は、私を守り、育ててくれたことがある。
だから、私は計り知れない恩を受けてきた。」

次に、「すべての生き物」ではなく、「親しい人たち」を対象にして、同様に、自分の母だったことがあるので恩を受けている」と考察します。
次に、好きでも嫌いでもない人たちを対象にして同様の考察を行います。
次に、嫌いな、自分の敵である人たちを対象にして同様の考察を行います。
このようにして、すべての生き物、人に対して分け隔てなく母の恩を感じるようにします。

次に、「母に対する恩を果たすように、すべての生き物に対してその恩に報いよう」という気持ちを生じさせます。

そして、「すべての生き物が 楽と出会えますように」と慈愛の念を起こします。
これについても、次に、親しい人、普通の人、敵である人を対象にして、同様の念を起こし、分け隔てなくします。

次に、「すべての生き物が、苦から離れられますように」と悲の念を起こします。
これについても、次に、親しい人、普通の人、敵である人を対象にして、同様の念を起こし、分け隔てなくします。

最後に、「すべての生き物を、仏の境地にまで導くために、修行の道に入ろう」と瞑想します。


「自他交換」の瞑想は、「自他平等」の瞑想とセットで行います。
発菩提心というだけでなく、「禅波羅蜜」つまり「止」の段階の瞑想としても行われます。

「自他平等」の瞑想は、次のように考察します。

「自他すべての生き物は、苦を望まない、楽を望むという点で平等だ。
自他すべての生き物は、苦が除かれる去るべきだという点で平等だ。
どうして自分の楽だけを望んだりするのか。」

「他人が敵として私に害を与えたとしても、彼がいるから、忍耐の修業ができるのだから、感謝するべきだ。
敵はいつも敵ではなく、敵も友も相対的なものだ」

続いて、「自他交換」の瞑想を、次のように考察します。

「楽は他人に楽を望むこと、つまり、利他的な心から生じる。
苦は自分の楽を望むこと、つまり、利己的な心から生じる。
だから、自分を大切にすることは不利益なことである。
他人を大切にすることは利益をもたらすことである。」

続いて、次のように考察します。
「他人を自分のように考え、自分を他人のように考えることは、繰り返し練習すれば、決して難しいことではない。
自己愛着の心を敵であると考えるべきだ。
自他は実体のある別のものではなく、分け隔てがないものだ。
今まで、利己的に行動してきたから、仏になることが出来なかったのだ。
自他を入れ替えることができたら、自他両方の利益が完成することは間違いがない。
だから、利己的な心をなくし、利他的な心を育てよう。」

そして、実際に、自他を入れ替えて、他人の苦しみを自分の苦しみとして受けり、他人に楽を与えるように考えます。

無字の公案の瞑想(臨済宗)

臨済宗の瞑想法は「公案」と使ったもので、「公案禅」とか「看話禅」と呼ばれます。
つまり、師からテーマ(問い)を与えられて、それに対する回答を求めて瞑想します。
回答を得たと思えば、師に会って、問答の中で確かめてもらいます。

江戸中期の白隠慧鶴が「公案」を使った瞑想修行を体系化しました。
つまり、修行を段階化して、「公案」をそれぞれに対応するように分類しました。
*白隠の公案体系については、姉妹サイトの「仏教の瞑想法と修行体系」の「白隠の公案禅の階梯」を参照してください。

最初の段階が「法身」です。
あるいは「初関」とも言います。
「法身」は「見性」を得るための段階です。
これは言葉による認識の世界の外に出て、無概念の認識を得ることです。

「法身」で一番有名な「公案」が「趙州無字」です。
これは中国宋代の無門慧開が編集した「無門関」の第一則である「趙州無字」を素材にしたものです。

内容は簡単に言うと、「僧が「犬にも仏性があるでしょうか」と問うた時、趙州は「無」と答えた、これはどういう意味か」という問いです。

大乗仏教の教学では基本として犬にも仏性があります。
趙州のこの話は、もともとは、仏性は隠されてしまっているので「ない」という意味だったのですが、無門慧開はこれを、「ある/ない」という判断を否定し、言葉の世界を突破するという意味で「無」であると解釈しました。
こういった解釈は宋代禅の特徴です。

具体的な瞑想法としては、まず、数息観、随息観、を行います。
つまり、呼吸に集中し、それを数えます。
最初は20まで数え…10…2と、数える数を減らしていきます。
そして、最終的に一なる呼吸そのものに集中します。

そして、そこに無字のテーマを重ね、「無」そのものに集中します。
雑念が生じると、「無」への集中へと戻し、雑念をなくしていきます。

その瞑想について、無門慧開が説明しています。

まず、全身で一つの疑いの塊になって、一日中「無」の字を問題として持ち続けます。
一つの熱い鉄の玉を呑み込んでしまって、苦しくて吐こうと思っても吐けないような状態です。
そして「無」そのものに成りきります。
この状態を「打成一片(だじょういっぺん)」と言います。

禅は論理的に説明しないのではっきりしませんが、おそらく、集中している対象は、最初は「趙州無字の問い」であり、仏教の教理としての仏性の有無でしょう。
次に、自分自身を対象として、現実に仏性が表れていないことと、仏性を探すことになるのでしょう。

そこから改めて対象が、公安の「無という概念」になり、さらに「無概念の状態そのもの」になるのでしょう。
アビダルマの用語で説明すれば、「止」の瞑想によって「一境性」(第四禅の三昧)になるわけです。

ただ単に無概念に集中するのではなく、問いを考え抜くうちに、論理や概念の限界を認識し、自然にその外に出る、という契機があります。
実はこの方法は、インド、チベットの中観派の瞑想法に似ています。
様々なものに実体性・本質や、それが存在するかどうかを考え抜く中で、それが否定され、無概念の認識に行きつきます。

次に、「無」に成りきっていると、ある時「無」が爆発します。
この状態を「驀然打発(まくねんたはつ)」と言います。
無門慧開は表現不可能な自由な状態と書いています。

これを分析することは難しいのですが、鈴木大拙の解釈では、何かのきっかけに無概念の状態に対する自覚が働き、智慧が生まれるのです。
「止」の状態に「観」が加わると言えます。
ここで、自分の中に仏性を見つけることになります。

以上の体験をして、十分に理解を得たと思えば、師との問答に挑みます。
決まった問答があるのではなく、師は、弟子がテーマを体得して理解したかどうかを、即興的な問答の中で判定します。
例えば、次のような問答となります。

(隠山派の場合)
答:「無ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「その「無」の証拠をここに出してみよ」
答:「無ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「お前はどうやって仏になるか?」
答:「無ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「趙州は別の機会には「ある」と答えた。これをどう思うか?」
答:「たとえ趙州があると言ったとしても、私はただ、「無ー!」と叫ぶのみです」
問:「「無」の本質(体)とはどのようなものか?」
答:何も言わず、両手を胸に当てて(叉手当胸)立ち上がる。
問:「「無」の働き(用)とはどのようなものか?」
答:立ち上がり両腕を前後に振りながら、5、6歩歩き「行くべき時には行きます」。もう一度座って「座るべき時には座ります」
問:「無字の根源、それはどのようであるか?」
答:「広大な大地で極小の砂粒を動かす風がそよとこ吹かないところから、空や地や山や川、すべてが現れます」


(卓洲派の場合)
答:「無ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「「無」と言わないとすれば何と言うか?」
答:「有(ウ)ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「「無」と「有」を区別してみよ」
答:「無ー!」「有ー!」と力いっぱい叫ぶ
問:「「無」と「有」はどれくらい離れているか?」
答:部屋の敷居や戸などを指差して「ここから敷居まではこれこれの距離、あそこの戸まではこれこれの距離です」
問:「「無」を私に手渡してみよ」
答:何でもよいから自分の手にあるものを師に手渡す」
問:「「無」を手軽に使っているところを見せてみよ」
答:「ジャン・ケン・ポン」と言いながらジャンケンをする
問:「「無」の根源はどうだ?」
答:「馬鹿なことを! そんなものがあってたまるものか。顔でも洗ってこい! アッカンベー」と言って立ち去り、ふすまを閉める


この「公案」に合格するまで3年かかると言われています。

トンレン

トンレンはチベット仏教の準備的な段階に行う修行で、菩提心(慈悲の心)に関係した観想法です。
「ロジョン(心の訓練)」と呼ばれる一連の瞑想の一部でもあります。

トンレンは、すべての人の痛みや不幸を自分が引き取って、反対に自分のすべての喜びを他人に与えることを観想します。
トンレンは、「与える、受け取る」という意味です。
トンレンは、初期仏教の頃からある慈悲の瞑想の一種であり、ある意味、その最終形です。

トンレンの中で代表的な、呼吸のトンレンを紹介します。

まず、目の前に苦しんでいる母を思い浮かべます。
様々な煩悩に苦しむ姿を想像します。
その母に憐れみを感じ、自分が助けなければいけないと感じます。

母の右の鼻の孔から、母の苦しみや悲しみが集まって、大きな黒い煙の塊になって吐き出されます。
自分が息を吸う時、その煙を自分の左の鼻の孔から吸い取ります。

それは胸の奥深くに入ってきて、自分の利己的な自我、自己愛着の心を破壊します。
この時、強烈な苦痛を感じますが、煙の毒が自我を解体して、慈悲の心が現れます。

そして、息を吐く時に、右の鼻の孔から、自分の持つ幸せや功徳のすべてが白い光となって出ていきます。
それは、母の左の鼻の孔から入り、母の煩悩が浄化され、喜びにつつまれます。

呼吸に従って、数十回、以上の観想を行います。
トンレンの行は、日常の呼吸の時にも常に自然に行なうことができるようになるまで行います。

以上のように、最初は母のような感情移入しやすい人を対象に行いますが、徐々に自分から遠い人を対象にしていきます。
そして、嫌いな人、すべての人を対象にします。

また、自分が病気の時にも、他のすべての人々の同じ病気とその痛みを引き受けると観想します。
トンレンの行は、実際に人々の苦しみを減らし、また自分のカルマを浄化することで、自分の病気をも回復させることにつながると考えられています。

以上は呼吸に合わせて行うトンレンですが、食事の時にもトンレンを行えます。
食事を体に入れる時に、人々の苦しみを受け取ると観想するのです。
他にも、いろいろと工夫してトンレンを行うことができます。
 
プロフィール

morfo

Author:morfo
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