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はじめに (目次)

「瞑想」と言っても、「心を落ち着ける(集中する)瞑想」、「あるがままに観察する瞑想」、「思考する瞑想」、「一切の思考をなくす瞑想」、「すべてを意識化する瞑想」、「言葉を繰り返し唱える瞑想」、「イメージを思い描く瞑想」、「気をコントロールする瞑想」、「体を動かしながらの瞑想」…など様々です。

世界の諸宗教・諸宗派の瞑想法の中から、興味深いと思った瞑想法を紹介します。
いずれも本格的な瞑想法で、世界文化遺産を認定するようなつもりで選びました。

なるだけ実践的に瞑想法を紹介しようと努めましたが、同時に、思想的な側面にも触れていますので、世界の様々な伝統的な思想や、その違いについても理解していただけると思います。


一応、最初の予定は書き終えましたが、随時、加筆したり、推敲します。

* このブログの記事をもとに瞑想を独習して、どのような結果になっても一切責任は負えません。
  実習は専門書や専門の師の指導の元に行うことをおすすめします。
  ただ、内容についてのご批判には真摯に対応します。

* 姉妹サイトで、体系化された瞑想法を扱った「仏教の瞑想法と修行体系」、瞑想法とはちょっと違う「夢見の技術」などもお読みください。

* FC2をめぐる状況を鑑みて、ブログをコピーしました。このFC2版を削除する予定はありません。
http://blog.livedoor.jp/morfov/




==もくじ==

◇はじめに
瞑想の種類
集中する瞑想  ・観察する瞑想  ・あるがままの瞑想
イメージする瞑想の基本  ・気をコントロールする瞑想
諸技法の分類・図式化

◇初期仏教~上座部仏教
安般念(出入息念)  ・四界差別観(四界分別観)
四梵住(四無量)  ・四禅(色界定)  ・四無色(無色界定)
聚思惟 
ヴィパッサナー瞑想(マハーシ流)

◇大乗仏教
「因果の七秘訣」と「自他交換」の瞑想(中観派) 
空観(中観派)  ・唯識観(唯識派)  ・トンレン

◇中期密教
阿字観(真言宗)  ・五相成身観(金剛頂経)

◇後期密教
金剛薩埵の瞑想(ゲルグ派)  ・六座のグル・ヨガ(ゲルグ派) ・チュー
秘密集会 生起次第  ・秘密集会 究竟次第
チャンダリーの火  ・カーラチャクラ究竟次第

◇ゾクチェン・マハームドラー
マハームドラー四次第
ゾクチェンのグル・ヨガ  ・セムデ(ゾクチェン)
テクチュー(ゾクチェン)  ・トゥゲル(ゾクチェン)

◇中国仏教・禅
一念三千の瞑想(中国天台宗) 
無字の公案の瞑想(臨済宗)  ・只管打座(日本曹洞宗

◇ヒンドゥー教
古典ヨガとサーンキヤ哲学の六行観  ・ジュニャーナ・ヨガ(ヴェーダーンタの瞑想)
カルマ・ヨガ  ・バクティ・ヨガ
真我探究とニサルガ・ヨガ(ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジ)

◇ヒンドゥー・タントリズム(ハタ・ヨガ)
ハタ・ヨガ(ナータ派ヨガ)とは ・クンダリニー・ヨガ  ・ナーダ・ヨガ 
ディヤーナ・ヨガ  ・ラージャ・ヨガ
マントラ・ヨガ(ジャパ・ヨガ)  ・ヤントラ瞑想法(チャクラ・プージャー)
ヴィギャン・バイラヴ・タントラ
アイアンガー・ヨガ  ・ヴィンヤサ・ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)

◇ジャイナ教
カーヤ・ウトゥサルガ  ・シャリーラ・プレークシャー  ・レーシュヤー・ディヤーナ

◇道教(仙道)
太陽存思法  ・解結と養胎の存思法
小周天(内丹法1)  ・大周天(内丹法2)  ・女丹(内丹法3)

◇イスラム教(ス-フィズム)
ズィクル

◇ユダヤ教(カバラ)
逆向き瞑想  ・メルカーバーの観想  ・セフィロートとアルファベットの瞑想

◇古代哲学
3つの道(プラトン主義)

◇キリスト教
ヘシュカズム(ギリシャ正教)  ・十字架のヨハネ(カトリック)

◇近代西洋オカルティズム
霊的認識の準備のための3つの瞑想(シュタイナーの人智学)
生まれなき者の儀式(ゴールデン・ドーン)
カバラ十字の儀式とアダム・カドモンの観想(ゴールデン・ドーン)
五芒星形の小儀式と4大天使の召喚(ゴールデン・ドーン)
中央の柱(ゴールデン・ドーン)
アイテール界の上昇(ゴールデン・ドーン)
グルジェフ・ワーク

◇古神道
鎮魂鳥居の伝(川面凡児)

◇シャーマニズム
融合の瞑想(ハワイアン・フナ)  ・記憶の書き替え(ハワイアン・フナ)
棚卸しの瞑想(メキシカン・トルテック)  ・ストーキング(メキシカン・トルテック)

◇補助的な技法 
セルフ・カウンセリング ・自己催眠とイメージ暗示 ・洗脳の防御法
禅病の治療法




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瞑想法の種類

具体的な瞑想法を紹介する前に、大まかに瞑想の方法を分類して、様々な瞑想があることを説明しましょう。
瞑想には様々な分類方法がありますが、本ブログでは、仏教の諸派の基本的な分類法をいい加減に使いながら、次の4つに分けて考えます。
ただ、個々の瞑想法をはっきりと4つに分類できるものではなく、いくつかの性質を同時に持っていたりします。

* 仏教の修行階梯の体系的な説明に関しては、姉妹サイトの「仏教の修行体系」をご参照ください。


<集中する瞑想>

この瞑想は、何らかの対象に集中して、それを心に保持したり、それ以外の雑念をなくす瞑想です。
対象と完全に一体化して、思考やイメージ、感情などの反応をなくしていくことも多いようです。

仏教では「止」(パーリ語で「サマタ」、サンスクリット語で「シャマタ」)と呼ばれる瞑想法です。

ヒンドゥー教の古典ヨガは8段階で構成されていますが、その最後の3段階は下記の通りです。

6 ダラーナ(凝念・コンセントレイション):何らかの対象に集中
7 ディヤーナ(静慮・メディテーション):分析的・連想的に延長して保持
8 サマディー(三昧・コンテンプレイション):対象と完全に一体化

仏教では、これらは「止」であるとします。
ただ、7、8には「止」に収まらない部分もあると思います。

仏教やインド哲学は、無神論的、現世否定的、抽象的神秘主義の傾向が強いので、最終的には、対象をなくした集中を行います。
あるいは、対象のない意識状態に、究極的な存在を見たりします。

有神論的な宗教・宗派では、集中によって、最終的には至高存在や神に接します。

詳細は「集中する瞑想」をご覧ください。


<観察する瞑想>

外界や自分の心を自覚し、正しく観察する瞑想です。
日常的な常識、イメージや言葉を停止させて、あるがままに見つめる必要があります。

仏教では「観」(パーリ語で「ヴィパッサナー」、サンスクリット語で「ヴィパッシュヤナー」、英語で「マインドフルネス・メディテーション」、「インサイト・メディテーション」)と呼ばれます。
仏教では、仏教だけに特徴的な瞑想法であると言いますが、実際には、類似した瞑想は他宗教にもあります。

それぞれの宗教・宗派の教義、哲学に沿って対象を分析的に観察することもあれば、ただ、直観的に観察することもあります。

一般に、上座部仏教ではこの世のすべてが「無常」、「無我」、「苦」であることを観察し、執着を取り除きます。
大乗仏教では、すべてが実体のない「空」であることを観察し、執着を取り除きます。
密教では、すべての存在が母体としての「空」から生まれる実体のない存在であり、「空」と一体であることを観察し、執着を取り除きます。

上記した古典ヨガのディヤーナや、ジュニャーナ・ヨガにも観察する側面があります。

また、ギリシャ哲学などで使われる「テオリア」、キリスト教などで使われる「コンテンプレーション」は、「霊的・神的な本質を直観する」という意味で、「観照」と訳されます。
これらは、実在を対象にするので、「観察する瞑想」と言えるでしょう。

詳細は「観察する瞑想」をご覧ください。


<イメージする瞑想>

特定のイメージをありありと思い描く瞑想です。
一般に「観想」と呼ばれます。

ハタ・ヨガではディヤーナでも「観想」は良く行われます。

完全にイメージ世界の中に入り込んで、夢の中にいるように思い描くことが一般的です。
特定のストーリーの展開に沿って順次、思い描いていくことが多いです。
密教の場合は、イメージの生滅のプロセスや、その前後を大切にします。

基本的に、イメージは意図的にコントロールして思い描くことで、特定の心の状態に導きます。

しかし、逆に、特定の精神状態になった時に、特定のイメージが自然に現れるように、イメージを目標として方向付けて瞑想する場合もあります。
この場合は、ヴィジョンは「集中する瞑想」の結果だと言えなくもありません。
このブログでは「受動的な観想法」と表現します。


また、特定のイメージを意図的に思い描いた後、一定の範囲でそのイメージが自然に動くままに任せる場合もあります。
この場合、瞑想というより「夢見」に近い方法になります。

* 「夢見」については姉妹サイトの「夢見の技術」をご参照ください。

また、儀式的な行動を伴って観想を行う場合もあります。
逆に言えば、儀式は常に観想的な瞑想を伴うのです。

この瞑想法は、後期密教の生起次第で、特に複雑で高度な瞑想法として発達させました。
多くの宗教、特に秘教的な伝統には、それぞれに独特の観想のヴィジョンがあります。

詳細は「イメージする瞑想の基本」をご覧ください。


<気をコントロールする瞑想>

体の中を流れる「気」をコントロールする瞑想法です。

「気」はインドでは「プラーナ」、チベットでは「ルン」、ヨーロッパでは「エーテル(アイテール)」などと呼ばれます。

体の中に気を蓄積したり、気を凝縮したり、体の気の流路に気をスムーズに流したりします。
また、体の中にある気の凝縮体を溶かしたり、気の身体を浄化したり、気の身体を新しく作ったりします。

気は心身と密接に関係しているので、特定の姿勢や運動、呼吸、意識のコントロールなどと連動させて行います。

仏教では、後期密教の「究竟次第」に特徴的な瞑想法です。
ハタ・ヨガは基本的に「気」をコントロールするものですし、クンダリーニ・ヨガはその最終段階です。
仙道の内丹法も「気」をコントロールすることが核心です。

詳細は「気をコントロールする瞑想」をご覧ください。


<あるがままの瞑想>

意図的に心を集中したり、静めたり、心に現れたものを変えたりといったコントロールを一切行いません。
その状態で、すべての体験を、ただ意識し、自覚するだけの瞑想法です。

しかし、何も変わらないのではなく、意識することで、心に現れるものが自然に変化し、解放されるに任せます。
すべての現れに執着せず、同一化しません。
創造というのは、こういった状態でしか起こりません。

また、同時に、このコントロールしない状態で、心の現れた体験だけではなく、自分の本性にも気づくようにします。
そして、この気づきを常に保つようにします。

仏教では、ゾクチェンやマハームドラーに代表的な瞑想法です。
ヒンドゥー教では、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジのニサルガ・ヨガがほぼ同じです。
また、シャーマニズムの知恵の道の伝統にも、近いものがあるようです。

詳細は「あるがままの瞑想」をご覧ください。

集中する瞑想


「集中する瞑想」には、宗教宗派によって様々な目的があり、様々な方法があり、様々な対象があり、様々な深さがあります。
ここでは、その瞑想の深まりを中心に概説しましょう。
「集中する瞑想」を最も論理的に体系化している、仏教の瞑想法を基本に説明します。
仏教では「集中する瞑想」を「止(サマタ)」と言います。

「集中する瞑想」は、何かを対象にしてそれに集中します。
例えば「リンゴ」を対象にする例で説明しましょう。

最初は、リンゴに集中してリンゴと無関係な雑念は排除します。
リンゴについていろいろと考えを巡らしたりします。
最初は、リンゴに対する個人的な好き嫌いや感情的反応などもあります。
次には、個人的な部分をなくして、客観的に考えます。

視覚的イメージに集中する場合は、最初はリンゴの目に見える像に集中します。
次に、外的な視覚像をなくし、心の内的なイメージを保持します。

上記のどちらから進んでも、最終的にはリンゴの客観的な本質、あるいはリンゴという観念そのものそのものだけを対象として集中します。

ちなみに、「ヨガ・スートラ」では、何かに集中する段階が「凝念(ダラーナ)」、一面的にそれを持続できる段階を「静慮(ディヤーナ・禅・メディテーション)」、対象に一体化した状態を「等持(サマディー・三昧・コンテンプレイション)」と言います。

この時点では、まだ思考など、様々な心の働きがあります。
一つずつ、心の働きをなくしていきます。

まず、言葉を使って考えているような、意識的な「粗い思考」をなくします。
次に、言葉を意識しないで行っている無意識的な「細かい思考」をなくします。
仏教ではこの言葉・思考がなくなった状態からを「三昧」と言います。

さらに、瞑想が進んだことで生じている、心が開放された「喜び」の感覚をなくします。
次に、通常の心を越えたところで感じている「楽」の感覚をなくします。
最後に、リンゴの本質との完全な「一体感」だけが残ります。
と同時に、対象にまったく心を動かされない中立的な状態です。
完全な「三昧」(第四禅)の状態です。

*このプロセスについては「四禅(色界定)」をご参照ください。

さらに深い瞑想の段階があります。
それは、集中する対象をなくす、あるいは究極的な対象にしてくことです。
前者は「無」の極限に向かい、後者は「有」の極限に向かいます。
ただ、これはもう「集中する瞑想」というより「観察する瞑想」になっていきます。

仏教やインド哲学、あるいはヨーロッパ・オリエントの「否定の道」では対象をなくしていきます。
つまり、リンゴの本質と一体化した状態で、リンゴの本質という対象をなくします。
完全に対象が存在しない無念無想の状態で、心の波動だけの状態です。
さらには、主体である心も存在しない状態にします。

仏教ではこういった瞑想状態は「空」とか「無相定」、「滅尽定」、「非想非非想処」などと呼ばれます。(*「四無色」を参照)

密教やインド哲学などでは、このような一般的な対象や主体が存在しない状態に、意識や存在の母体、あるいは究極的存在を見出します。
有神論的な宗教の神秘主義の場合は「無としての神」、神秘主義哲学では「一なるもの」と表現したりします。
ただ、これらの場合は、対象が実在なので、「観察する瞑想」と言うべきでしょう。

また、集中する対象として、言葉を繰り返し唱えて、それに集中する方法が世界的にあります。
(*ヒンドゥー教の「マントラ・ヨガ」、ギリシャ正教の「ヘシュカズム」、イスラム神秘主義の「ズィクル」参照)
いずれも、これによって深層の本当の自己や、究極存在を見出そうとするための方法です。

観察する瞑想

「観察する瞑想」は、仏教が仏教に独特の瞑想法であると主張している「観」(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス・メディテーション)が代表です。
ただ、「集中する瞑想」にも、対象の本質を認識するという側面があるので、2つを明確に区別することは難しいでしょう。
(仏教では、「集中する瞑想」の対象は観念的なもので、現実を対象にする場合は「観察する瞑想」だと考えます。)


「観察する瞑想」の準備段階は、仏教では「正念正知」と呼ばれます。
これは、日常的な意味で、自分の行動や感情、考えに、常に気づいているように気をつけることです。
「今、私は怒りを感じている…(怒るのはやめよう)」というように。
常に気づいている状態を保つことは大変難しいですが、訓練によって自覚を保つ時間を延ばすことができます。

最初は、瞑想用の時間を取って、座禅したり、ゆっくり歩いたりして、自覚する訓練をします。
そして、徐々に日常生活に自覚を広げます。
通勤中だとか、家事だとか、単純労働をしている時から自覚をする訓練をするのがやりやすいでしょう。


ユダヤ教のカバラやヨーロッパの魔術的伝統で、毎日寝る前に行う「逆向き瞑想」は、1日の体験を時間を遡って思い出す瞑想です。
これを行うと、自覚できていない時間帯、行動をチェックすることができます。

次に、本格的な「観」(ヴィパッサナー瞑想)に移ります。
「正念正知」との違いは、「私が怒りを感じている…(怒るのはやめよう」といった日常的な認識や判断を捨てて、あるがままに見ることです。

つまり、「私」とか「怒り」といった常識的でパターン化された言葉による認識をせずに、現れた感情・感覚などをそのまま、既成観念なしに自覚し、つかず離れずの中立的な立場から観察します。
すると、自然に日常的に習慣化された感情的反応や行動はなくなります。

一般的には、最初は、呼吸など、観察する基本対象を決めて行い、気が散ると、それをしっかり観察して、また、基本対象に戻します。
基本対象を、呼吸→全身の感覚→外界の感覚→感情→思考と変えていきます。
そして、最終的には、基本対象を決めずに行います。

現代の上座部仏教の、一般向けの瞑想法、マハーシ流のヴィパッサナー瞑想などでは、教義を意識せずに、ただ直観的・直感的に観察するのですが、伝統的な方法では、各宗教・宗派の教義・哲学に従って、理論的に分析して洞察します。

部派仏教(上座部仏教)の場合は、アビダルマ哲学に沿って、日常的な概念ではなく、それを構成している実在する存在(究極法)を一つ一つ見極めていきます(「聚思惟」を参照)。
これによって、無常・無我・苦を認識し、すべてに対する執着と無知をなくしていきます。

大乗仏教の場合は、中観派や唯識派の哲学にそって、「空」「唯識」を認識して、同様に執着と無知をなくすと同時に、説法できるような智慧を得ていきます。

バラモン・ヒンドゥー系のジュニャーナ・ヨガの場合、サーンキヤ哲学ヴェーダーンタ哲学に沿って対象を、心身や外界を粗大なものから順に認識していきます。
そして、それらが自分の本質(アートマンとかプルシャとか)ではないとして捨て去り、最後に自分の本質を見出します。

また、ギリシャ哲学の「テオリア」、キリスト教神秘主義の「コンテンプレーション」は、「霊的・神的な本質を直観する」という意味で「観照」などと訳されます。
これらは実在を対象にする瞑想なので、「観察する瞑想」と言えるでしょう。
(*前者は「弁証法の道」、後者は「十字架のヨハネ(カトリック)」を参照)

あるがままの瞑想

「あるがままの瞑想」は仏教の一種であるゾクチェン(セムデテクチュー)に特徴的な瞑想法です。
仏教では、他にもマハー・ムドラーや中国禅にも近いものがあります。
バラモン・ヒンドゥー系では、ラマナ・マハリシや、ニサルガダッタ・マハラジの言うニサルガ・ヨガもこれに属すると思います。
他にも、スーフィー系と言われるグルジェフのワークや、シャーマニズム系のフナトルテックにも似た瞑想法があります。


一番の特徴は、一切、心のコントロールをしないということです。
意識的に何かに集中したり、その対象を保持したり、対象を止滅させたり、対象を認識したりしません。

心をコントロールすることなく、ただ、心に現れたものを意識し、体験します。
しかし、これだけだと、「観察する瞑想」、仏教で言えば「観(ヴィパッサナー瞑想)」と変わりません。

「あるがままの瞑想」では、心の現れを意識するだけではなく、同時に、自分の心の本質、主体に意識を向けます。
この本質は、「気づき」そのもの、純粋な観察者であり、透明な鏡そのもののような存在です。
そして、この心の本質である純粋な「気づき」そのものを、常に保つようにします。

ゾクチェンではこれを「原初の智慧」とか「明智(リクパ)」と言います。
バラモン・ヒンドゥー系では「アートマン」、「プルシャ」です。

そうすると、心に現れた、どのような内容、対象にも捕らわれることもなく、同一化することもありません。

もう一つの違いは、「観察する瞑想」では、どちらかと言うと、心に現れたものに対して否定的で、それがなくなることを目指したりします。
しかし、「あるがままの瞑想」では、心に現れたものに対して肯定的で、それが自由に現れ、変化することに対して積極的です。

人の思考や感情、行動などは、ほとんどが習慣化されています。
意識していないと、決まった形の繰り返しになってしまいます。
しかし、ただ意識するだけで、対象にある種のエネルギーが流れ、創造的になり、その時その時、変化するものになります。
意図的に変化させるのではなく、自然に変化するに任せます。

「あるがままの瞑想」の特徴としては、段階的な訓練というものが本質的ではなく、いきなり自分の本性である気づきに意識を向けて、あるがままを体験するようにします。

とは言っても、現実的には、最初は、座禅している状態で瞑想するのが簡単でしょう。
徐々に、歩行中とか、単純な作業をしながら行います。

最終的には、何をしていても、一日中その気づきの意識の状態でいることを目指します。
その点では瞑想法というより姿勢や態度に近いかもしれません。
 
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